った。
或風立った日、父が京に心を残し残し常陸へ下って往った後、女はもう物語の事も忘れてしまったように、明け暮れ、東の山ぎわを眺めながら暮らしていた。「今頃お父う様はどこいらを旅なすっていらっしゃるだろう」と、穉い頃|東《あずま》から上ってきた遠い記憶を辿《たど》りながら、その佗びしい道すじの事を浮かべていると、父恋しさは一層まさるばかりだった。朝がた、東の方の黒ずんだ森から、秋の渡り鳥らしいのが一群、急に思い出したように一しょに飛び立って、空を暗くしては山の彼方へ飛び去って往くのなんぞを、女は何がなしいつまでも見送っていた。
晩秋の一日、女は珍らしく思い立って、太秦《うずまさ》へ父の無事を祈りに、ひとりで女車に乗って出掛けた。一条へさしかかると、その途中に、物見にでも出掛けるらしい一台の立派な男車が何かを待ちでもしているように駐まっていた。女が簾《みす》を深く下ろさせたまま、その前を遠慮がちに通り過ぎて往ってから、暫くして気がつくと、さっきの男車らしいものが跡から見え隠れしながら附いて来ていた。女はそれを気にするように、すこし車を早めながら、太秦まで往き著《つ》いて寺にはいってし
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