しめつけられる程の好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことがなかった。何かと云えばいま一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端《うちわ》な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度で好いから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、――此頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし、男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになって往った。――が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふいとその髣《ほの》かに見たきりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした、……。

 その翌年の春だった。或夜、右大弁は又その一の宮に音楽のあそびに招かれて往っていた。暁がた、男は一人で庭に降り立って、ほんのりとかかった繊《ほそ》い月を仰ぎ仰ぎ、読経などをしながら、履音《くつおと》をしのばせてそぞろ歩きしていた。細殿《ほそどの》の前には丁子《ちょうじ》の匂が夜気に強く漂っていた。男はそれへちょっと目をやりながら、遣戸《やりど》の
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