前を通り過ぎようとした時、ふいとその半開きになっていた遣戸の内側に一人の女のいるらしいけはいを捉えた。女房の一人でも月を眺めているのだろう位に思って、男は何の気なしにそれへ詞をかけた。内の女は暫く身じろぎもしないでいたが、漸《や》っとためらいがちに低く返事をした時、男ははじめてそれが誰であったかに気がついた。
「あなたでしたか。あの時雨の夜はかた時も忘れずになつかしく思っておりました」
 男はわれ知らず少し上ずったような声を出した。
 そうしてそのまま男は黙って返事を待っていた。遣戸の内からは、暫くすると女がこんな歌をかすかに口ずさむのが聞えて来た。
「なにさまで思ひ出でけむなほざりの木の葉にかけし時雨ばかりを」
 その時その細殿の方へ履音を響かせながら、五六人の殿上人たちが男を追うようにやって来た。男はそれと殆ど同時に、遣戸の奥へ女がすべり込んで往くけはいに気がついた。
 男は殿上人たちに拉《らっ》せられながら、細殿の前に漂っていた丁子の匂を気にでもするように、その方を見返りがちに、再び履音をさせながら其処を立ち去って往った。

   六

 女が、前の下野《しもつけ》の守《かみ》だった、二十も年上の男の後妻となったのは、それから程経ての事だった。
 夫は年もとっていた代り、気立のやさしい男だった。その上、何もかも女の意をかなえてやろうとしていた。女も勿論、その夫に、悪い気はしなかった。が、女の一向《ひとむき》になって何かを堪え忍んでいようとするような様子は、いよいよ誰の目にも明らかになるばかりだった。しかし、もう一つ、そう云う女の様子に不思議を加えて来たのは、女が一人でおりおり思い出し笑いのような寂しい笑いを浮べている事だった。――が、それがなんであるかは女の外には知るものがなかった。
 夫がその秋の除目《じもく》に信濃の守に任ぜられると、女は自ら夫と一しょにその任国に下ることになった。勿論、女の年とった父母は京に残るようにと懇願した。しかし、女は何か既に意を決した事のあるように、それにはなんとしても応じなかった。
 或晩秋の日、女は夫に従って、さすがに父母に心を残して目に涙を溜《た》めながら、京を離れて往った。穉《おさな》い頃多くの夢を小さい胸に抱いて東《あずま》から上って来たことのある逢坂の山を、女は二十年後に再び越えて往った。「私の生涯はそれでも決して空し
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