それとなく話題に上そうとでもすると、慌ててそれを他に外らせようとしたりした。しかし、女はいつかその男が才名の高い右大弁《うだいべん》の殿である事などをそれとはなしに聞き出していた。――そうやって宮に上っていても何か落ち着きを欠いている女は、里に下りて、気やすく老いた父母だけを前にしている時は、一層心も空のようにして、何か問いかけられても返事もはかばかしくなかったりした。そうして一向《ひとむき》になって何かを堪え忍んでいるような様子が、其頃から女の上には急に目立ち出していた。
右大弁はときどき友達と酒を酌んでいる時など、ひょいとその時雨の夜の事、――それからそのとき語り合った二人の女のうちの、はじめて逢った方の女の事なぞを思い浮べがちだった。男は勿論、外にも幾たりかの女を知っていた。又、大方の女というものがどういうものであるかも知悉《ちしつ》した積りでいた。――しかし、その時雨の夜のように、何ぶん暗かったのでその女の様子なんぞよく見られなかったせいもあるかも知れないが、その女といかにもさりげなく話を交していただけで、何かこう物語めいた気分の中に引《ひ》き摩《ず》られて行くような、胸のしめつけられる程の好い心もちのした事などはこれまでついぞ出逢ったことがなかった。何かと云えばいま一人の女房を立てて、自分はいかにも控え目にしていた、そんな内端《うちわ》な女のそういう云い知れぬ魅力というものは何処から来るのだろうかと、男は自問自答した。もう一度で好いから、あの女と二人ぎりでしめやかな物語がして見たい。私の琵琶を聞かせたらどう聞くだろうか、――此頃になくそんな若々しい事まで男は思ったりもしていた。しかし、男は何かと公儀の重い身で多忙なうちに、その女の事も次第に忘れがちになって往った。――が、ときどき友達と酒でも酌んでいるような時に、思いがけずふいとその髣《ほの》かに見たきりの女の髪の具合などがおもかげに立って来たりした、……。
その翌年の春だった。或夜、右大弁は又その一の宮に音楽のあそびに招かれて往っていた。暁がた、男は一人で庭に降り立って、ほんのりとかかった繊《ほそ》い月を仰ぎ仰ぎ、読経などをしながら、履音《くつおと》をしのばせてそぞろ歩きしていた。細殿《ほそどの》の前には丁子《ちょうじ》の匂が夜気に強く漂っていた。男はそれへちょっと目をやりながら、遣戸《やりど》の
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