《しず》かにこんな事を語り出した。
「どうした訳ですか、私は今ふいと十七年ほど前の或晩の事を思い出しておりました。それは私が斎宮《さいぐう》の御|裳著《もぎ》の勅使で伊勢へ下った折の事です。伊勢に上っておる間、殆ど毎日、雪に降りこめられておりました。ようやく任も果てたので、その明けがた京へ上ろうかと思って、お暇乞《いとまごい》に参上いたしますと、ただでさえいつも神々しいような御所でしたが、その折は又|円融院《えんゆういん》の御世からお仕えしているとか云う、いかにも神さびた老女が居合わせて、昔の事などなつかしそうに物語り出し、しまいにはよく調べた琵琶までも聞かせてくれました。私もまだ若い身空でしたが、何んだかこうすっかりその琵琶の音が心に沁《し》み入《い》って、ほんとうに夜の明けるのも惜しまれた位でした。――それからというもの、私はそんな冬の夜の、雪なんぞの降っている晩には極まってその夜の事を思い出し、火桶《ひおけ》などかかえながらでも、かならず端近くに出ては雪をながめて居ったものでした。――そんな若い時分の事もこの頃ではつい忘れがちになっておりましたのに、今、こうしてあなた達と話し込んでいますうち、その夜の事が急になつかしく思い出されて来たのです。どういう訳のものでしょうか。――そう云えば、今宵もこれ程私の心に沁み入っていますので、これからはきっとこんな真暗な、ときどき打ちしぐれているような冬の夜の事も、その斎宮の雪の夜と一しょに、折々なつかしく思い出される事でしょう。……」
 男はそんな問わず語りを為はじめた時と少しも変らない静かな様子で、それを言《い》い畢《お》えた。
 男が程経て立ち去った跡、女達はそのままめいめいの物思いにふけりながら、いつまでも其処にじっと伏せていた。雨は、木の葉の上に、思い出したように寂しい音を立て続けていた。

   五

 こんな事があってからも、女が何かと里居がちに、いかにも気がなさそうな折々の出仕を続けていた事には変りはなかった。が、出仕している間は、いままでよりも一層、他の女房たちのうちに詞少《ことばすくな》になって、一人でぼんやりと物など跳めているような事が多かった。しかし、何かの折にいつかの女房と一しょになりでもすると、互に話もないのにいつまでもその女房の傍にいて何か話をしていたそうにしていたり、又、相手があの時雨の夜の事を
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