し合っていた。およんちゃんはときどき私の方を気にして見たりしていた。何か、泣いているらしいときもあった。私は往来に立ったまま、そっちの方はなるべく見ないようにして、そんな夕がたの町裏の見なれない人の往き来を熱心に見ていた。
 そんな夕方の帰りなんぞには、私はいつもよりか大人しく母の手に引かれて、絵双紙屋の前を通っても何んにもねだらずに、黙って歩いていた。夕方遅くなったりなんぞすると、母は吾妻橋《あずまばし》の袂《たもと》から俥《くるま》をやとって、大川を渡って帰った。そんなとき、私は母の膝《ひざ》の上に乗せられるのが好きだった。……
 母がまだ父と一緒にならないうちに、向島《むこうじま》の土手下に私とおばあさんだけと暮らしていた時分、小さな煙草屋をやっていたと云う話を、私が誰からきくともなしに知り出していたのも、丁度その頃だった。そのせいか、そんな裏通りなんぞにある、みすぼらしい煙草屋の二階にその小さなおばさんが一人で間借りしているのが、何か、子供の私にも悲しくて悲しくてならなかった。(が、今日の私が、自分の幼年時代の思い出のなかに見出《みいだ》す幸福という幸福のすべてが、いかにそれら
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