はならない家の相談などを母たちとし合ったりしていた。
 幼い私は、父が来てそんな話をしていく度毎に、そんなわが家のことなどは思わず、唯《ただ》、ながいこと可哀そうに水につかっていた無花果の木のことだの、どこかへ流れ去っただろう玉網のことだの、それから其処《そこ》から引越してしまえば、もう会えなくなってしまうだろうお竜ちゃんのことだの、それから少し、たかちゃんのことだのを、切なく思い出していた。


     芒《すすき》の中


「ほら、見てごらん」と父はその家の壁のなかほどについている水の痕《あと》を私達に示しながら、「ここいらはこの辺までしか水が来なかったのだよ。前の家の方はお父さんの身丈《みたけ》も立たない位だったからね。……」
 その私達の新しく引越していった家は、或る華族の大きな屋敷の裏になっていた。おなじ向島《むこうじま》のうちだったが、こっちはずっと土地が高まっていたので、それほど水害の禍《わざわ》いも受けずにすんだらしかった。前の家ほど庭はなかったが、町内は品のいい、しもた家《や》ばかりだったから、ずっと物静かだった。
 引越した当時は、私の家の裏手はまだ一めんの芒原《
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