、――そういうはじめてそれを手にしたときの幼時の自分に対するなつかしさなしには、その物語を味《あじわ》われなくなっていた。たとえば、はじめて物語の世界、いわば全然別箇の世界を私に啓示するきっかけとなった、それらの雪の日の絵だけを例にとって云えば、私はその絵を見る度毎《たびごと》に、それをはじめて母の膝下《ひざもと》でひもといた、或古い家のなんとなく薄暗い雰囲気《ふんいき》を、知らず識《し》らずの裡《うち》に思い出さずにはいられないのだ。――そうしてまた同時にその思い出の生じさせる一種の切なさにちがいないのだ、私がいつもその雪の絵を見るたびに感ずる何処か遠いところから来る云い知れぬ感動のようなものは……
 その絵双紙に次いで、もっと他の絵双紙が私のまわりにだんだん集って来て、私の前に現実の世界に対抗できるほどの新しい見事な世界を形づくり出したのは、しかし、その神田の家を立ち去ってからであった。
 私の父は、向島の水漬いた家からときどき私達に会いに来た。一時は軒下までも来た水ももうすっかり去ったが、そのあとの目もあてられない程にひどくなっていることを話し、何処かにしばらく一時借住いしなけれ
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