も好かったろう、――が、ともかくも、はじめて自分に与えられた一冊の絵双紙くらい、少年の心にとってなつかしいものはない。――さて、私に与えられたその絵双紙というのは、その或一枚には、大雪のなかに、異様な服装をした大ぜいの義士たちが赤い門の前にむらがって、いまにも中へ討ち入ろうとしている絵が描かれてあった。又他の一枚には、雪の庭の大きな池にかかった橋の上に、数人の者が入り乱れて闘っていた、そしてそのうちの若い義士の一人は、刀を握ったまま池の中に真逆様《まっさかさま》に落ちつつあった。……それらの闘っている人々は、いずれも、日頃私が現実の人々の上に見かけたことのないような、何んとも云えず美しい顔をしていた。私はそれがどういうドラマチックな要素をもった美しさであるかを知らない内から、その異常な美しさそのものに惹《ひ》かれ出していた。後年、私は何度となくそれと類似の絵双紙を見、それを愛した。そうして私もだんだん大きくなり、それの劇的要素が分かるようになりだした頃には、そのときはもう私は、――それが何んの物語を描いた絵だかもさっぱり分からずに見入りながら、しかも一種の興奮を感ぜずにはいられなかった
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