り戸から出這入《ではい》りしていた。そういう商家のすべての有様が少年にはいかにも異様だった。……
 そこに私達が何日ぐらい、或《あるい》は何箇月ぐらい泊っていたか、覚えていない。それからその家の主人の、「きんやさん」といつも私の父母が親しそうにしていた大旦那《おおだんな》のことも、それから私達の世話をよくしてくれたそのお内儀《かみ》さんのことも、殆ど私の記憶から失われている。それからもう一人、――たとえ偶然からとはいえ、私が自分の人生の或物をその人に負うているのに、いつか私の記憶から逸せられようとして、あやうくその縁に踏み止《とど》まっているといったようなのは、その日々私をたいへん可愛がってくれた店の若衆の一人だった。よくお昼休みなどに、彼は私をその頃まだ私には珍らしかった自転車に乗せて、賑《にぎ》やかな電車通りまで連れていってくれた。そこの広場には、はじめて私の見る怪物のような、大きな銅像が立っていた。その近くにはまた一軒の絵双紙屋があった。その絵双紙屋で、彼は私のためにその一冊を何気なく買ってくれたりした。……
 恐らく私は他の誰かに他の本を与えられたかも知れなかった。それはそれで
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