子へ行くの……ずいぶん遠いのよ……」お竜ちゃんは何か私に同情されたいように云った。
 それきりで私達は別れなければならなかった。
 が、こういうような出来事のおかげで、お竜ちゃんとこうやって思いがけず仲直りのできたのが、私には本当に嬉《うれ》しかった。逢《あ》ったのがたかちゃんの方でなくってよかった、そんなことまで私は子供らしい身勝手さで考えた位だった。それもただお竜ちゃんに逢えただけではない、このまますぐ別れるのでなかったら再び昔のように仲好くなれそうになった事で、私は小さな胸を一ぱいにさせていた。そのためそんないつまた逢えるかも知れない別離そのものさえ、殆ど私を悲しませなかったほどだった。

 私達の避難したのは、神田の或《ある》裏通りにある「きんやさん」という、父の懇意にしていた、大きな問屋だった。
 その昔風の、問屋がまえの、大きな家は、昼間から薄暗かった。細い櫺子《れんじ》の窓からだけ明りを採り入れている部屋部屋の、ずっと奥まった中の間のような所に、私達は寝泊りしていた。そうして私達はいつもおおぜい人のいる店の方へはめったに行かないで、狭い路地にひらかれている、裏の小さなくぐ
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