れたのは、そのお竜ちゃんだったのである。
 お竜ちゃんは、しかし、私を空気かなんぞのように見ながら、澄まして、寧《むし》ろつんとしたような顔をして、私の隣りに坐った。私は心臓をどきどきさせながら、一人でどうしてよいか分からず、机の蓋《ふた》を開けたり閉めたりしていた。
 それは私の得意な算術の時間だった。どんなに上《うわ》ずったような気もちの中でも、私は与えられる間題はそばから簡単に解いていた。そういう私とは反対に、お竜ちゃんには計算がちっとも出来ないらしかった。そうして帳面の上に、小さな、いじけたような数字を、いかにも自信なさそうに書き並べているのを、私はときどきちらっと横目で見ていた。しかし、お竜ちゃんは、大きな、無恰好《ぶかっこう》な数字が一めんに躍《おど》っているような私の帳面の方は偸見《ぬすみみ》さえもしようとはしなかった。
 突然、私は鉛筆の心《しん》を折った。他の鉛筆もみんな心が折れたり先きがなくなっているので、私は小刀でその鉛筆をけずり出した。しかしいそげばいそぐほど、私は下手糞《へたくそ》になって、それをけずり上げない先きに折ってしまった。
 お竜ちゃんは、そんな私をも見ているのだか見ていないのだか分からない位にしていたが、そのとき彼女の千代紙を張った鉛筆箱をあけるなり、誰にも気づかれないような素ばしっこさで、その中の短かい一本を私の方にそっと押しやった。
 私も私で、黙ってその鉛筆を受取った。その鉛筆は、よくまあこんなに短かくなるまで、こんなに細くけずれたものだと思ったほど、短かくしかも尖《とが》っていた。私はそれがいかにもお竜ちゃんらしい気がした。私はすこし顔を赤らめながら、そんな先きの尖った短かい鉛筆で、いまにもそれを折りはしないかと思って、こわごわ数字を並べているうちに、だんだん自分の描いている数字までが何処かお竜ちゃんの数字みたいに小さな、顫《ふる》えているような数字になりだしているのを認めた。……
 やっと授業が終ったとき、私は「有難う」ともいわずに、その鉛筆をそっとお竜ちゃんの方へ返しかけた。しかし、その鉛筆は私の置き方が悪かったので、すぐころころと私の方へころがって来てしまった。――そのときは、みんなはもう先生に礼をするために起立し出していた。私もその鉛筆を握ったまま立ち上がった。礼がすむと、女の生徒たちは急にがやがや騒ぎ出しながら、教室から出て行った。お竜ちゃんは他の生徒たちの手前、最後まで私を知らない風に押し通してしまった。そのため、彼女の貸してくれた使い古しの短かい鉛筆は、そのまま私の手に残された。


     エピロオグ


 私は、自分の最初の幼時を過ごした、一本の無花果《いちじく》の木のあった、昔の家を、洪水のために立退《たちの》いてしまってから、その後、ついぞ一ぺんも行って見たことがなかった。
 私は、いま、この幼年時代について思い出すがままに書きちらした帳面を一先《ひとま》ず閉じるために、私がもう十二三になってから、本当に思い設けずに、その昔の小さな家を偶然見ることになった一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話《そうわ》を此処《ここ》に付け加えておきたい。
 その頃私たちの同級生に、緒方《おがた》という、母親のいない少年がいた。級中で一番体が大きかったが、また一番成績の悪い少年だった。学校が終ると、いつも数名連れ立って帰ってくる私達に、ときどきその緒方という少年は何処《どこ》までも一しょにくっついてきて、自分の家へは帰ろうともせずに、夕方遅くまで私達と石蹴《いしけ》りやベイごま[#「ベイごま」に傍点]などをして遊んでいた。相当腕力も強かったので、彼を自分たちの仲間にしておこうとして、私達は何かと彼の機嫌《きげん》をとるようにしていた。それにまた、そういうベイなどの遊びにかけては彼は誰よりも上手だったのだ。――或る日、私は横浜から父の買ってきてくれた立派なナイフをもっているところをその緒方に見つかった。緒方はそれをいかにも欲しそうにし、しまいに、彼の持っているベイ全部と交換してくれと言い出した。全部でなくてもいい、二つか三つでいい、と私は返事をした。そんな分《ぶ》の悪い交換に私が同意したのは、腕力の強い緒方を怖《おそ》れたばかりではなかった。私の裡《うち》には何かそういう彼をひそかに憐憫《れんびん》するような気もちもいくらかはあったのだ。
 それは冬の日だった。その日にとうとう約束を果たすことにし、私は自分で好きなベイを選ぶことになって、はじめて緒方の家に連れて行かれた。私はなんの期待もなしに、黙って彼についていった。しかし、彼が或る大きな溝《みぞ》を越えて、私を連れ込んだ横丁は、ことによるとその奥で私が最初の幼時を過ごした家のある横丁
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