平橋《なりひらばし》駅の方へ連れていってくれた。それが私の忍耐の報酬だった。私はその新らしい駅が何んということもなしに好きだった。私はとりわけ、誰もいなくて、空《から》っぽ過ぎるくらい空っぽで、その向うに白い雲のうかんでいるようなプラットフォオムが好きだった。そのうち空《から》の汽車が徐《しず》かに後戻りして来ながらそれに横づけになって、何んにも見えなくなってしまう。やがて、プラットフォオムの上には人々の姿がちらつき出し、見る見るそれが人々で一ぱいになる。が、その汽車が何度も汽笛を鳴らしながら出ていってしまうと、あとは又以前のように空っぽになってしまう。そしてその向うにはまた白い雲のうかんでいるのが見える。そんなすべての変化が面白くってならなかった。――私がそうやって一人で改札口の柵《さく》にかじりついて、倦《あ》かずにそれらの光景に見入っている間、父は構内のベンチに腰を下ろしながら、売店で買った夕刊なんぞ読んでいた。


     赤ままの花


 私の若い頃の友人だった、一詩人が、彼自身もっと若くて、もっと元気のよかったとき、
[#ここから3字下げ]
お前は歌ふな
お前は赤ままの花やとんぼの羽根を歌ふな
[#ここで字下げ終わり]
 と高らかに歌った。その頃、私はその「歌」と題せられた詩の冒頭の二行に妙に心をひかれていた。それは、非常に逞《たく》ましい意志をもち、しかもその意志の蔭に人一倍に繊細な神経をひそめていた、その独自の詩人が自分自身にも向って彼の「胸先きを突き上げて来るぎりぎりのところ」を歌ったのにちがいがなかった。その勇敢な人生の闘士は、そういう路傍に生《は》えて、ともすれば人を幼年時代の幸福な追憶に誘いがちな、それらの可憐《かれん》な小さな花を敢《あ》えて踏みにじって、まっしぐらに彼のめざす厳《きび》しい人生に向って歩いて行こうとしていた。……
 その素朴な詩句は、しかしながら私の裡《うち》に、云いしれず複雑な感動をよび起した。私はその僅《わず》かな二行の裡にもその詩人の不幸な宿命をいつか見出《みいだ》していた。何故なら、その二行をもって始められるその詩独特の美しさは、それは決してその詩人が赤まんまの花や何かを歌い棄《す》てたからではなく、いわばそれを歌い棄てようと決意しているところに、……かえってこれを最後にと赤まんまの花やその他いじらしいものをとり入れているために――そこにパラドクシカルな、悲痛な美しさを生じさせているのにちがいないのだった。若しそれらを彼が本当にその詩を書いたのち綺麗《きれい》さっぱりと撥《のぞ》き去ってしまったなら、その詩人はひょっとしたらその詩をきっかけに、だんだん詩なんぞは書かなくなるのではないか、という気が私にされぬでもなかった。
 それほど、私はより高い人生のためにそれらの小さなものが棄て去られることには半ば同意しながら、しかしその一方これこそわれわれの人生の――少くとも人生の詩の――最も本質的なものではないかと思わずにはいられない幼年時代のささやかな幸福、――それをこの赤まんまの花たちはつつましく、控目《ひかえめ》に、しかし見る人によっては殆《ほとん》ど完全な姿で代表しているのだ。……
「それはそうと、赤まんまの花って、いつ頃咲いたかしら? 夏だったかしら? それとも……」と私は自分のうちの幼時の自分に訊《き》く。その少年はしかしそれにはすぐ答えられなかった。そう、赤まんまの花なんて、お前ぐらいの年頃には、年がら年じゅうあっちにもこっちにも咲いていたような気がするね。……
 いわばそれほど、季節季節によってまるでお祭りのように咲く、他の派手な花々に比べれば、それらの地味な花はいつ咲いたのか誰にも気づかれないほどの、そして子供たちをしてそれがままごと[#「ままごと」に傍点]に入用なときにはいつでも咲いているかのような――実はその小さな花を路傍などで見つけて、誰か一人がふいと手にしてきたのが彼|等《ら》にそんな遊戯を思いつかせるのだが――心もちにさせる、いかにも日常生活的な、珍らしくもない雑草だった。
 しかしながら、その「赤まんま」というなつかしい仇名《あだな》とともに、あの赤い、粒々とした花とはちょっと云いがたい位、何か本当に食べられそうに見える小さな花の姿を思い浮べると、いまだに私には一人の目のきつい、横から見ると男の子のような顔をした少女の姿がくっきりと浮ぶ。それから、もう一人の色つやの悪い、痩《や》せた、貧相な女の子の姿が、その傍《かたわ》らに色褪《いろあ》せて、ぼおっと浮ぶ。それからその幼時の私のたった二人っきりの遊び相手だった彼女たちと、庭の無花果《いちじく》の木かげに一枚の花莚《はなむしろ》を敷いて、その上でそれ等の赤まんまの花なんぞでままごとをしながら、肢体《したい
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