てその一番|隅《すみ》にある、やっとその中に自分の小さな体がすっぽりとはいれるような灌木《かんぼく》のかげに身をひそめて、誰にも見られぬようにしながら、一人で悲しんでいた。私はそうやって自分ひとりで悲しんでいれば、すべてが好くなると、なぜかしら思い込んでいた。そうしてそのために其処へ身をひそめただけで、もう目頭《めがしら》が一ぱいになって来るのを、やっと怺《こら》えながら、垣根の向うの、一面に雑草の茂った空地を、何か果てしなく遠いところのものを見ているかのように見ていたりした。或る日なんぞは、そういう自分の目の前に女の子のもつ手毬《てまり》くらいの大きさの紫いろの花がぽっかりと咲いているのに気がついたが、すぐそれへは手を出さずに、ひとしきり泣いたあとで、漸《ようや》っと許されたように、それをおずおずと掌《てのひら》にのせて弄《もてあそ》んだりしていたこともある。(註二)
 そうやって私が庭の一隅にいつまでも身をひそめていると、そのうちに漸っとおばあさんが私を捜しに来た。いつもの私の隠れ場をよく知り抜いているくせに、おばあさんはわざとそういう私に気がつかないようなふりをして、何度も私の名を呼びながら、私の方へ近づいてきた。そうして私と隠れん坊でもしていたかのように、彼女のすぐ目の前に私を見つけて、わざとびっくりして見せた。それからもうそんな遊戯が終ったとでも云うように、「さあ、もうおうちん中へはいろうね」とおばあさんは私にやさしく言葉をかけて、私の手を無理にとった。私はちょっと抗《さから》って見せたが、自分が頑張《がんば》っていればおばあさんの力ではどうにもならないのを知っているものだから、身ぶりだけで抵抗しいしい、おばあさんの手に引っ張って行かれるがままになっていた。自分の悲しみがすべてを好いほうに向わせたらしいことに、一種の自負に近いものを感じながら……
 おばあさんは私の家に泊りにきていないときは、いつも私の母の妹や弟たちの家へ行っているのだということを私はいつか知るようになった。小梅の、尼寺のすぐ近所にはずっと前から一人のおばさんが住んでいた。その家へは私もときどき母に手を引かれて家に遊びにいった。そうしていつとはなしに自分の家からその家へ行く道すじを覚えてしまっていたものと見える。(註三)
 或る日、私の父が、私のために小さな竜を彫った真鍮《しんちゅう》の迷子札《まいごふだ》を手ずからこしらえてくれた。それが私にはいかにも嬉《うれ》しかったのだろう。私はその日の暮れがた近くぷいと誰にも知らさないで家を出た。もうこれからは一人で何処へだって行ける。そんな得意な気もちになってしまって、私はまっ先きにおばあさんのいる小梅のおばさんのところへ一人で行ってみようとおもった。最初は元気よく歩いていった。へんに曲りくねった裏道をすこしも間違えないでずんずん歩いていった。が、そのうちに、大きな屋敷や藪《やぶ》ばかりが続いているところへ出た。そこまで来ると、私は急に何んだか心細く、どうしたらいいか分からなくなってしまった。私はただもう泣き出したくなるようなのをやっと我慢しながら、真鍮の迷子札をしっかりと握りしめて、無我夢中になって歩いて行った。しまいには殆ど走るようにして行った。そうしたらやっとのことでおばさんの家が見え出した。その垣根の中では、おばあさんが丁度干し物を取り込んでいた。
 おばあさんは私が一人なのを見ると、びっくりして飛んできた。「まあどうしたんだい、一人でなんぞ……」そういわれると、私はもう何も言わない先きから、わあと声をあげて泣き出した。ただ自分の兵児帯《へこおび》にぶらさげたその迷子札をしきりに引っ張っておばあさんに教えながら……
 そんな仲好しのおばあさんが居なくなって、茶の間で忙しそうにしている母にうるさくまつわりついては一人でぐずぐず言っているような時など、
「坊や、一しょに散歩に行こう。」と父が言ってくれた。
「あんまり遠くへはいらっしゃらないで。」母はいつも心配そうに言うのだった。
 私は父と出かけることも好きだった。しかし、父は先《ま》ず、曳舟通りなんぞにある護謨《ゴム》会社や石鹸工場のなかへ私を連れてはいり、しばらく用談をしている間、私を事務所の入口に一人で待たせておいた。その間、私はすぐ目の前の工場の中できいきいと今にも歯の浮きそうな位|軋《きし》っている機械の音だの、汗みどろになって大きな荷を運んでいる人々だの、或《ある》事務所の入口近くにいつも出来ている水溜《みずたま》りの中に石油が虹《にじ》のようにぎらぎら光っているのなどを、いかにも不安そうに、じっと何か怺《こら》えている様子で、見守っていなければならなかった。
 それから父は私の手をひいて、曳舟通りをぶらぶらしながら、その頃出来たばかりの業
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