ずに、ひたすら帰りをいそいでいた私達は、はじめてほっとし出した。そうして最初に沈黙を破ったのは、それまで私のために気づかって、かえっていつまでもそれを気にしすぎていることで一層私を不機嫌《ふきげん》にさせていた、不幸な少女の方だった。
「さっきの水たまりには小さなお魚が泳いでいたわね」そうおずおずした思い出し笑いのようなものを浮べながら、少女はそっちの方を振りかえって見た。
「ああ、ぼくも見た……」私もやっと自分自身にかえったように、急に元気よく言った。
そう言い合いながら、二人は、それまで無我夢中になって歩いてきた野の方を、それを最後のように振りかえった。野の上には、二人の過《よ》ぎってきた途中の水たまりが、いまも二つ三つ日に反射していた。そのまたずっと彼方の、地平線の方には、二人のまだ見たこともないような大きな入道雲が浮び出していた。(実はさっき野原を横切っているときから二人には気になっていたのだった……)それが、いま、極《きわ》めて無気味な恰好に拡がって、もうずっと遠くになった硝子工場の真上に覆《おお》いかぶさろうとしているところだった。さっきから二人を脅かしつづけていたもの、やっとのことで二人がその兇手《きょうしゅ》から逃《のが》れ出してきたものが、いまや、もう二人が追いつきようのないほど遠ざかってしまったものだから、やむを得ずにとうとうその正体を現し、そんな凄《すさま》じい異形《いぎょう》をそこでし出してでもいるかのように、二人には見えるのであった。……
洪水
そういう夏が終って、雨の多い季節になった。
毎日が雨のなかにはじまり、雨のなかに終っていた。そういう雨の日を、たかちゃんも遊びに来ず、私はよく一人で硝子戸《ガラスど》に顔をくっつけて、つまらなそうに雲のたたずまいを眺《なが》めていた。それを眺めているうちに、いつか自分の呼吸《いき》で白く曇り出している硝子に、字とも絵ともつかないような、それでいて充分に描き手を楽しませる模様を描いては、それを拭《ぬぐ》わずにそのままにして、又ほかの硝子戸にいって雨を眺めていた。
そんな硝子の模様は、あたかも私自身のいる温かい室内の幸福を証明しているかのように、いつまでも残り、それに反して、それ等を透かして見えている雨にびしょ濡《ぬ》れになった無花果《いちじく》の木をば、一層つめたく、気持わる
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