わ》っていず、ただ空箱の上に一鉢《ひとはち》の菊が置かれてあるっきりだった。しかもそれすら汚《きたな》らしく枯れたまんまだった。……
小さなトランクひとつ持たない風変りな旅行者の一種独特な旅愁。――私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、東京では見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃をかけ合い、そこからそうしつけている者のように、元町通りの方へそれを走らせた。もっとも通行人を罵《ののし》る運転手の聞きなれないアクセントは私をちょっとばかり気づまりにさせたが。……
元町通り。店店が私には見知らない花のように開いていた。長い旅のあとなので、すっかり疲れきり、すこし熱気さえ帯びていたけれど、それでも私は見せかけだけは元気よくコツコツとステッキを突きながら、人々の跡から一体どんな方角へ行くのかわかりもせずに歩き続けていた。今夜何処へ泊ったものやらまだ目あてのない旅行者で自分があることに誰からも気づかれまいと思って……。私はとある珈琲店の中へ気軽そうにはいって行った。ただその店の名前が東京で私の行きつけている珈琲店の名前に似ていたばっかりに。私はそこから須磨《すま》
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