したいかにもこのホテルらしい異様《ビザアル》なことは、一泊三円という約束だった宿泊料が四晩泊って十一円であったこと、それは何も特別に一円負けてくれたのではなしに、あの頭のすこし禿《は》げかかったお人好しらしい主人が熱心に首をかしげて暗算した合計であったので、私は例の気まぐれから大いに愉快になり、すましてその通りに勘定を支払い、そしてそれだけ余分に私にはかなり無愛想だった支那人のボオイにチップを置いて来てやったことだった。どうも気まぐれというものは多少メフィスティックなものであるらしい。
その一週間ばかりの小さな旅行の後、私はすっかり扁桃腺をこじらせて、八度近い熱を出しながら、東京へ帰って来た。――そうしてそれなり寝ついてしまった私は、或る日、ふと手許《てもと》にあったレクラム版のハイネの詩集をめくっているうち、ホテル・エソワイアンに泊った最初の晩、なかば眠りに浸っていた眼をいたずらにその文字面にさまよわせていたところの「五月に」という詩をひょっくり読みあてたので、今度は一字一字、小さな独和辞書を引っぱりながら読んでみたら、そのときは半分以上も字の意味が分らないままに自分勝手にそれを
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