は白いペンキで塗りつぶされてあるのかも知れなかった。
 やっとのことで表扉が大きく軋《きし》みながら開かれた。そしてその内側には、そのホテルの主人らしい、すこし頭の禿《は》げかかった、私たちよりも背の低いくらいな毛唐《けとう》が、ノッブを握ったまま突っ立っていた。T君が英語でもって部屋はあるかと声をかけた。するとその主人はそれよりもっと下手糞《へたくそ》な英語でそれに応じた。(私はへんに重々しげなアクセントによって彼が露西亜《ロシア》人らしいのを認めた。)――いま自分のところには階下に小さな部屋が一つ空いているきりだ。それも丁度いまその部屋の借り手が東京へクリスマスをしに行っているので、その間だけなら貸すことが出来る、というような意味のことをT君に言っているらしかった。そんな部屋の交渉は一切T君に任せたきり、そこの玄関口に無雑作にほうり出されてある埃《ほこり》まみれの本棚《ほんだな》だの、錆《さ》びかかったタイプライタアだのへ目を注いでいた私は、やっと顔を持ち上げながら、どうせ私も二三日ぐらいしか泊らないつもりだからそれを見せて貰《もら》おうじゃないかとT君を促した。T君がそれを主人に通訳してくれた。さっきからT君の方をばかり見ていたその主人は、今度はそのおずおずしたような視線を私の方へ注いで、ではひとつその部屋を見てくれと言いながら、先きに立って、便所やらコック部屋やら浴室やらの前を通りぬけながら、ずっと奥まった部屋へ――そんな奇妙なところに二つばかり小さな部屋があるのだが、その一つのなかへ私たちを導き入れた。
 そんな奥まった小さな部屋へはいると、いきなりT君が仏蘭西《フランス》の何処とかの田舎《いなか》で泊ったことのある古い旅籠《はたご》の部屋にそれがそっくりだと言い出したので、私もそうかなあと思いながら、そこにある古ぼけた寝台だの、いやに大きな鏡ばりの衣裳戸棚だの、剥げちょろな鏡台だの、小さなナイト・テエブルだのを眺《なが》め廻しているうち、それがいかにもそんな外国の片田舎にありそうな旅籠屋のような気がしだした。そしてこの悲しげな部屋がいまの私の心に不思議なくらい似つかわしいように思えた。
 その小さな部屋が朝飯つきで一泊三円だという。そこで私はともかくも十円札を一枚だけ渡しておいた。そうすると、その時までともすると、小さなトランクひとつ持っていない私たちを妙に不安そうな眼つきで見がちだった、すこし頭の禿げたその主人は急にそわそわし出したように見えるくらい愛想よくなって、私の方を向きながら、それではお前もこちらにクリスマスを送りに来たのかなどと問い出した。私はまた私で、やがてその主人のかかえてきた大きな宿帳に、露西亜人や波蘭《ポーランド》人らしい名前ばかりの並んでいる下へ自分の名前をぶきっちょな羅馬《ローマ》字で書きつけているうちに、クリスマスなんかを一向楽しいとも思ったことのない私であったが、なんだか不意に、明日からのクリスマスを楽しく送りに、わざわざこんな神戸くんだりまでやって来たかのような気にさえなり出したほどであった。……
 T君が明日また正午頃来るからと約束して帰ってしまうと、私は今朝《けさ》から汽車に乗りどおしだったので、さすがに疲れていたし、どうやら熱もすこしあるらしいので、すぐ服をぬいで、シャツだけになって、寝台に横になった。それでもその部屋は小さいだけ、スティムで蒸し暑いくらいだった。が、さて横になってみると、私はこんな慣れない部屋の中ではなかなか寝つかれそうもなかった。あいにく読む本は一冊も持っていない。その時私は、つい今しがたこの部屋を片づけに来たホテルの主婦らしい女が、鏡台の抽出《ひきだ》しから腕いっぱいに書類を取り出して、それを他の部屋へ移そうとするのを見て、それはそのままにして置いてもいいと言ったら、それを又元のところへ入れ直して行ったのをひょっくり思い出した。私はベッドから起きて行った。そうしてその抽出しに手をかけようとした時、ちょっと気がとがめたが、どうせこんなところへ入れっ放しにして置くほどのものなら大事なものではあるまいと思い直して、それを構わずに開けてみた。抽出しの中はなんだか私の読めない露西亜語の本ばかり詰まっていたが、なかに一冊|独乙《ドイツ》語の薄っぺらな本の雑っているのを見つけた。それから小さな独露辞書らしいものもあった。その薄っぺらな本を手にとって見ると、モスコオで発行されたハイネの小さな詩集であった。これゃあいいものがあったと、私はそれを手にしたまま、再びベッドにもぐり込んだ。ぱらぱらと頁《ページ》をめくってみると、或る頁に名刺ぐらいの大きさの写真が一枚|※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]《はさ》んであった。雀斑《そばかす》のありそ
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