うな、若い男の写真である。この露西亜人らしい男が、この部屋の借り手で、そしてこのハイネの詩集を読んでいるのかと思ったら、ちょっと懐《なつか》しい気がした。私はそれを注意深くもとの頁に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28] んで、それからこんどはその巻頭にある「五月に」(Im Mai[#「Im Mai」は斜体])という詩を、一字一字丁寧に見つめながら読んでいった。
[#ここから3字下げ]
〔Die Freunde, die ich geku:sst und geliebt,〕
〔Die haben das Schlimmste an mir veru:bt.〕
Mein Herz bricht ……[#ここまでの3行は斜体]
[#ここで字下げ終わり]
――しかし独乙語はなにしろ高等学校でちょっと習ったきりなので、その詩のなかの太陽[#「太陽」に傍点]だとか薔薇[#「薔薇」に傍点]だとか心臓[#「心臓」に傍点]だとか五月の空[#「五月の空」に傍点]だとか、そんな簡単な名詞ぐらいは覚えていたけれど、肝腎《かんじん》な形容詞や動詞をすっかり胴忘れてしまっているので、私は自分の空想力でやっとそれを補いながら読んでみたのであるが、どうもそんな私に分かる語彙《ごい》だけから見ると、その詩はおよそ私の現在の気持からはあまりに懸《か》け離れていそうに思えたので私はその詩の意味をちっとも嚥《の》み込めないうちに、その小さな本を私の枕《まくら》もとに伏せてしまった。それに私はいい具合にすこしうとうとしだしたものだから……
正午ごろ、T君が私を誘いに来てくれた。それから二人でホテルを出ると、一時間ばかり古本屋だの古道具店だのをひやかしたのち、海岸通りのヴェルネ・クラブに行った。しゃれた仏蘭西料理店だ。そこの客は大概外国人ばかりだった。私たちが一隅の卓で殻つきの牡蠣《かき》を食っていると、兎《うさぎ》の耳のようにケープの襟《えり》を立てた、美しい、小柄な、仏蘭西女らしいのが店先きにつと現われて、ボオイをつかまえ、大事そうに両手でかかえている風呂敷包を示しながら、何やら片言まじりの日本語で喋舌《しゃべ》っている。私には「ネープルをもってきました」と言ったようにそれが聞えた。ボオイはなんだか解《わか》らないような顔をして奥へ引っ込んでいったが、それと入れちがいにその料理店の主人らしいのが出て来て、仏蘭西語で愛想よく一人一人に挨拶《あいさつ》をしながら客たちの間を通り抜けて、その婦人の方へ近よって行った。その時その婦人が風呂敷包を開けながら、ヴェルネ氏に渡したものをちらっと見ると、それは一匹の可愛らしい三毛猫であった。ネコといったのを私はネープルと聞きまちがえたのであった。ヴェルネ氏はそれをにこにこして受取りながら、しきりに 〔Tre`s bien ! Tre`s bien !〕[#「〔Tre`s bien ! Tre`s bien !〕」は斜体]と繰り返している。おしまいには婦人までが鸚鵡《おうむ》がえし
に 〔Tre`s bien ?〕[#「〔Tre`s bien ?〕」は斜体]と二度ばかり口ごもる。低くはあるが、いかにも満足したような声である。
私たちはそれからマカロニイやら何やらを食べて、その店を出た。そうして私たちはすぐ近くの波止場《はとば》の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝《ぐろ》くさえあった。おまけに私がそいつの出帆に立会いたいと思っていた欧洲航路の郵船は、もうこんな年の暮になっては一艘《いっそう》も出帆しないことがわかった。私の失望は甚《はなは》だしかった。そうしてただ小さな蒸汽船だけが石油くさい波を立てながら右往左往しているきりだった。ときどき私たちとすれちがって行く仏蘭西の水兵たちの帽子の上に、ポンポン・ルウジュが、まるで嬉《うれ》しがっている心臓のように、ぴょんぴょん跳《は》ねていたが、それが私の沈んだ心臓と良い対照《コントラスト》をした。海岸通りの何とかいう薬屋のショオウィンドを覗《のぞ》いたら、パイプやなんかと一緒に五六冊、英吉利《イギリス》語の本が陳列されてあった。そのなかにふと海豚叢書《いるかそうしょ》の「プルウスト」を見つけたので、ゆうべの読みづらかったハイネの詩集を思い出しながら、その薬屋のなかへ這入ってその小さな本を買った。T君の話では、この店にはときどき随筆物で面白い本が来るのだそうだ。それからまた、私たちはその窓から電話やタイプライタアの強請《ゆす》ったり吃《ども》ったりする音の聞えてくる商館の間を何となくぶらぶらしてみたり、今では魚屋や八百屋《やおや》ばかりになった狭苦しい南京町《ナンキンまち》を肩をすり合せるようにして通り抜けたりしたの
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