ち、今度はひっそりした殆《ほとん》ど人気のない東亜通りを、東亜ホテルの方へ爪先《つまさ》きあがりに上った。その静かな通りには骨董店《こっとうてん》だの婦人洋服店だのが軒なみに並んでいる。ヒル・ファルマシイだとか、エレガントだとか云う店は毎年軽井沢に出張しているので私には懐しく、ちょっとその前を素通りしかねた。とあるネクタイ屋のショオウィンドに洒落《しゃ》れたネクタイが飾ってあるので近づいて行って、覗こうとしたら、何処からか犬が私たちに吠《ほ》えついた。あたりを見廻しても、犬なんかいないのだ。やっと気がついて頭を持ち上げて見ると、そのネクタイ屋の二階には看板の代りに、このへんの大概の洋館のようにバルコンがついていて、そこの緑色の亜字欄に精悍《せいかん》そうなシェパアドが一匹縛りつけられていたが、そいつが私たちに吠えているのであった。ネクタイ屋の看板にしては、これはすこし物騒《ぶっそう》すぎる。聖公教会の門のところに、まるで葡萄《ぶどう》の房《ふさ》みたいに一塊《ひとかたま》りに、乞食《こじき》どもがかたまっている。私たちがそれを不思議そうに見過ごしながら、それからすこし急な坂を上ってゆくと、今度は一軒の立派な花屋の前に、何台も何台も、綺麗《きれい》な自動車ばかりがかたまっている。その時やっと教会と乞食と花とが私の頭のなかで唐草《からくさ》模様のように絡《から》み合って、私に、今夜がクリスマス・イヴであるのを思い出させた。……私はそこでT君の方へふりかえりながら言った。
「これから外人墓地へでも行ってみようか?」
「うん――君さえ元気があれば行ってもいいよ……」
「そうだなあ……」
……自分で言い出しておいて、私はちょっと首をかしげる。そんな会話を交《かわ》しながら、いつの間にか私たちの歩いている山手のこのへんの異人屋敷はどれもこれも古色を帯びていて、なかなか情緒がある。大概の家の壁が草色に塗られ、それがほとんど一様に褪《さ》めかかっている。そうしてどれもこれもお揃《そろ》いの鎧扉《よろいど》が、或いはなかば開かれ、或いは閉されている。多くの庭園には、大粒な黄いろい果実を簇《むら》がらせた柑橘類《かんきつるい》や紅い花をつけた山茶花《さざんか》などが植わっていたが、それらが曇った空と、草いろの鎧扉と、不思議によく調和していて、言いようもなく美しいのだ。……T君もひさしぶりにこの辺まで上って来たものらしく、さっきからしきりに此処《ここ》いらまでよく遊びに来たことのある昔のことを思い出してはひとりで懐《なつか》しがっている。私は私で、こんなユトリロ好みの風景のうちに新鮮な喜びを見出《みいだ》している。こんな家に自分もこのまま半年ばかり落着いて暮らしてみたいもんだなあと空想したり、こういうところでその幼時を過したT君のことを羨《うらや》ましがったりしながら、だんだん狭くなってくる坂を上ったり下りたりしているうちに、今度はT君の方が首をかしげだした。どうやら彼自身のこんがらがった幼時の思い出をほごすのにあんまり夢中になり過ぎていたT君は、いつの間にやら、私たちの目指《めざ》している外人墓地への方角を間違えてしまっているらしかった。その挙句《あげく》に漸《ようや》っと彼は、私たちが飛んでもない見当ちがいな、或る丘の頂きに上って来てしまったことを、気まり悪そうに私に白状した。そうして私たちの上って来たやや険しい道は、一軒の古い大きな風変りな異人屋敷――その一端に六角形の望楼のようなものが唐突《とうとつ》な感じでくっついている、そして棕梠《しゅろ》だのオリイブだのの珍奇な植物がシンメトリックな構図で植わっている美しい庭園をもった、一つの洋館の前で、行きづまりになっていた。そうして少しがっかりして、息をはずませながら、その風変りな家に見とれている私たちの姿を目ざとく認めると、黄色に塗られた鉄柵《てっさく》ごしに、その庭園の中から一匹のシェパアドが又しても私たちに吠《ほ》え出した。私はあんまり犬が好きじゃないのだ。どうもこの辺もいいけれど、もの静かに散歩をするには、すこしシェパアドが多過ぎるようだ。
夕方、私たちは下町のユウハイムという古びた独乙《ドイツ》菓子屋の、奥まった大きなストーブに体を温めながら、ほっと一息ついていた。其処《そこ》には私たちの他に、もう一組、片隅《かたすみ》の長椅子に独乙人らしい一対の男女が並んで凭《よ》りかかりながら、そうしてときどきお互の顔をしげしげと見合いながら、無言のまんま菓子を突っついているきりだった。その店の奥がこんなにもひっそりとしているのに引きかえ、店先きは、入れ代り立ち代りせわしそうに這入《はい》ってきては、どっさり菓子を買って、それから再びせわしそうに出てゆく、大部分は外人の客たちで、目まぐるしいく
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