らいであった。それも大抵五円とか十円とかいう金額らしいので、私は少しばかり呆気《あっけ》にとられてその光景を見ていた。それほど、私はともすると今夜がクリスマス・イヴであるのを忘れがちだったのだ。
 私はなんだかこのまんま、いつまでも、じっとストーブに温まっていたかった。しかし私は旅行者である。何もしないで、こうしてじっとしていることも、後悔なしには、出来ないのである。
 やがて若い独乙人夫婦は、めいめい大きな包をかかえながら、この店を出て行った。JUCHHEIM[#「JUCHHEIM」は斜体]と金箔《きんぱく》で横文字の描いてある硝子戸《ガラスど》を押しあけて、五六段ある石段を下りて行きながら、男がさあと蝙蝠傘《こうもりがさ》をひらくのが見えた。私は一瞬間、そとには雪でも降りだしているのではないかしらと思った。ここにこうしてぼんやりストーブに温まっていると、いかにもそんな感じがして来てならなかったが、静かに降りだしているのは霧のような雨らしかった。

 その夜十二時近くに、私はすっかり雨に濡《ぬ》れ、力なげな咳《せき》さえしながら、午前中に出たきりのホテル・エソワイアンに帰って来てみると、その中はひっそりかんとして、誰もまだ帰ってきていないのか、それとももうみんな寝てしまったのか、分らないくらいだった。薄ぐらい廊下にただ一匹、からす猫がうろうろしていた。私はふとヴェルネ・クラブでちらっと見た美しい婦人の抱いていた仔猫《こねこ》のことを思い出し(どうしてだか、それがずっと数日前のような気もしたが)、そのきたならしい猫をそっと抱き上げて、咽喉《のど》のところを撫《な》でてやったら、すぐにそいつが咽喉をごろごろ鳴らし出したので、私はなんだか反《かえ》ってさびしい気がした。床におろしてやると、私の足へ身をすりよせるようにして、ついてくるのだ。すこし邪魔っけになって、私はその猫を足で向うへ押しやりながら、自分の部屋にはいろうとしてそのノッブに手をかけた拍子に、ひょいと薄ぐらい廊下の突きあたりを見すかすと、其処に、二階への階段へちょっと片足をかけたまま、ぼんやりした人影がこちらへ顔を向けながら突っ立っているのに気がついた。それは女にはちがいないが、その顔は電燈の片光りを浴びて、へんに無気味な凸凹《でこぼこ》をつくっているので、それが少女の顔なのか年よりの顔なのか私にはどうしても識別できなかった。私はふと最初の晩、ホテルの窓から顔を出していた女のことを思い出した。その時と同じように、その髪の毛だけきらきらと金色に光っていたが、その髪の恰好《かっこう》は今朝私が食堂で見かけた青衣の少女のそれとそっくりだった。……私はなんだかぞっとしたような気持になって、急いで部屋にはいるなり、ドアをぴたんと閉めてしまった。それをうるさい猫のせいにして。……それから私が着物をぬいでいる間中、その猫はそのドアを外から爪《つめ》でがりがり掻《か》いていたが、私がベッドに横になった時分は、もうあきらめたのか、その爪の音はしなくなった。とても疲れていて、さっきまでは眠くっていまにも倒れそうであったのに、さて電燈を消してしまうと、よくあるやつだが、急に目が冴《さ》え冴《ざ》えとしてきた。そこでしょうことなし、再び電燈をつけ、今日買ってきたばかりの「プルウスト」を出鱈目《でたらめ》に披《ひら》きながら読み出した。そうしてひょっくり読みあてたのが、こんな一節であった。
 ――ノルマンディ海岸のバルベックに少年がはじめてお祖母《ばあ》さんと一しょに到着した晩のことである。彼|等《ら》はグランド・ホテルに泊る。彼は自分の部屋にはいる。長い旅のあとなので、すこし熱気を帯び、ぐったりと疲れて。しかし眠ることは、こんな見慣れぬ家具類のなかでは、とても出来そうもない。習慣が、時計の音を黙らせたり、菫色《すみれいろ》のカアテンの敵意を弱めたり、家具を動かしたりする余裕がないのだ。こんな気味の悪い部屋のなかに、と云うよりも、まるで野獣の洞窟《どうくつ》のような中に、たった一人きりで、四方八方から異形《いぎょう》のものに取り囲まれているよりか、むしろ死んでしまいたいと少年は思う。お祖母さんがはいって来て、彼をなぐさめ、彼が靴のボタンをはずすのを手つだい、着物をぬがせ、彼をベッドに入れてくれ、そしてそこを立ち去る前に、もし夜中に何か彼女にして貰《もら》いたいことがあったら、彼の部屋と彼女の部屋との間の仕切りをノックするようにと言い残して行く。彼がノックをすると、お祖母さんはすぐ来てくれる。しかしその夜をはじめ、それから幾夜となく、彼は苦しむ。――彼は愛人のジルベルトなしに何時《いつ》までも生きなければならないのではないかという考えや、彼の両親を永久に失うのではないかという考えや、彼自身の死の考
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