えに恐怖しだす。しかしそういうような愛人や両親や自分自身から離れている不安は、その不安に慣れるにしたがって、彼自身もだんだん平気になって行くのではないかと考えはじめた刹那《せつな》、それは一層大きな恐怖に変わる。何故《なぜ》なら、習慣の錬金術《れんきんじゅつ》がこうして苦しんでいるものを完全な無関心者《ストレンジャア》(その者にはそんな苦しみの原因が全く莫迦《ばか》げたものに思われるのだ)に変えてしまい、そうしてその時こそは彼の愛情の対象が消えるのみならず、その愛情そのものさえ消えてしまうかも知れないからだ……
――ふとそんな一節を読みあてた頁《ページ》から私は目をそらして、私にはまだ慣れきっていない自分の部屋を眺《なが》めまわしたのち、それから目をつぶって、今朝《けさ》のちょっと無気味だった眼覚《めざ》めを心のうちにまざまざと蘇《よみがえ》らせた。……
翌朝、私が目をさましたのは昨日よりもまたずっと遅いらしかった。例の支那人《しなじん》のボオイを呼んで、朝飯はまだ食わせてくれるかと聞いたら、すこし怒ったような顔つきをして、朝食を食べるならもう少し早く起きてほしい、もう十二時だ、と下手糞《へたくそ》な日本語で、それだけ一層そう見えるのかも知れないが、私にかなり突慳貪《つっけんどん》な返事をした。が、私が食堂の中へはいって見るとそこにはまだ昨日と同じように三人の女が遅い朝飯に向っていた。私の隣りのテエブルの母娘《おやこ》づれらしい方は、ふたりとも昨日と同じの黒い衣服をつけて、若い女の方は相変らず綺麗に化粧をしていたが、もう一方の、私がきのうは十八九の少女だとばかり思い込んでいた金髪の娘の方は、今朝は光線の具合でか、まるで顔が皺《しわ》だらけで、三十をこしていそうに思えるくらいに老《ふ》けて見えた。私はおとついの窓の女も、ゆうべ廊下で出会った少女なのか年よりなのかわからない女も、ひょっとしたらこの女だったのかも知れないぞと思った。おまけに今朝は寝間着らしいものの上にけばけばしい緑色のガウンをだらしなく引っかけたまま、トオストを齧《かじ》りながら、栗色《くりいろ》の髪の若い女が何やらもの静かに話しかける度毎《たびごと》に、荒あらしくそちらへ体をねじ曲げては無雑作に答えるかと思うと、そのついでに私の方をも無遠慮に見つめたりした。私はなんだかいやな気がして、その女から眼をそらしながら、ふとその眼を私がときどきふんづける小さな軟《やわら》かなものの方へ持って行くと、それが三鞭酒《シャンパン》の栓《せん》らしいことを認めた。ははあ、ゆうべは此処でも三鞭酒を抜いたんだな?……こいつらが騒いだのかしら? それにしてもこいつらは一体何者だろう、私にはとんと得体が知れない。……と、そんなことを考えながら、私が靴でその小さな栓を踏みにじっていると、食堂のドアを開《あ》けてのっそりと、まだこのホテルで私の見かけたことのない、何処やらちょっとクライブ・ブルックめいた中年の紳士が、寝ぼけたような顔をして、這入《はい》って来た。そうしてなんだか寒そうに手を揉《も》みながら、女たちに何か私にはわからない冗談を言っているらしかったが、そこへ丁度、ボオイが、私のためにポリッジを運んできたので、そいつをつかまえて、「朝飯出来ますか?」とぎごちない英語で聞いていた。支那人のボオイはますます仏頂面《ぶっちょうづら》をしだして、その男のために中央の円卓子の上を不機嫌《ふきげん》そうに片づけ始めた。それを見ると私はなんだか急に微笑がしたくなった。そうして私のテエブルに砂糖がないことに気がついて、それをボオイに言おうと思っていた私は、ついその男の方に気をとられて、それを言いそびれていた。……そのうちにどうしてだか突然、私には、この食堂の隅々《すみずみ》にまで漂っていそうな、陰惨というほどのものではないけれど、何かしら重苦しい、澱《よど》んだ空気が呼吸苦《いきぐる》しく覚えられだした。そしてそれをあたかも具体化したように、私の咽喉はへんにえがらっぽくなり出した。どうもすこし扁桃腺《へんとうせん》をやられたらしい。そうして砂糖なしのポリッジは大へん不味《まず》かった。
私はこのホテル・エソワイアンには、四日ばかり泊った。三日目ごろからますますこのホテルの中の噎《むせ》ぶような重い空気が私には我慢しきれなくなった。何ということなしに世間の空気が息苦しくなったあまりに、その息ぬきにわざとこんな世間から離れたようなホテルを選んで泊ったのであるけれど、このホテルの中のそういう空気は私を一そう窒息させそうにした。私はもっと新鮮な、そして気持のいい空気がほしくなった。私はとうとう須磨《すま》の方へ宿を替えることにした。
そうして私がこのホテルを立ち去ろうとする前に、最後に私の経験
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