色《くりいろ》の髪をして綺麗《きれい》に化粧した二十七八の若い女と老眼鏡をかけたその母親らしいのが差し向いで食事をしていた。そこのもう一方の空《あ》いた卓子が私にあてがわれたのである。食堂の時計を見ると十一時近くであった。もうこんな時刻だのに、この食堂がこんな女達ばかりなのには私はちょっと異様な気がした。私が這入《はい》ってゆくのを認めると、珈琲を飲みかけていた主人が私の方へ顔を向けて微笑《ほほえ》みかけながら「ゆうべはよく眠れたか?」と英語で訊《き》いた。それだけならいいが、それと同時に、他の女達が一ぺんに私の方をけげんそうにふり向いたので、私は少しどぎまぎしながら、反射的に微笑を浮べたまま、主人にうなずいて見せた。やがてこんな stranger によってちょっと中絶された会話をみんなは再び続け出したらしかった。ときどきヤポンスキイという言葉が混じる。ひょっとすると俺《おれ》のことでも話しているのかしらんと思いながら、そんな空想によってかすかな気づまりを感じながら、私は食堂の窓から、半ば寝ぼけた顔つきで中庭を眺めていた。が、それは中庭といっても、狭苦しくって、樹木なんぞは一本も植《うわ》っていず、ただ空箱の上に一鉢《ひとはち》の菊が置かれてあるっきりだった。しかもそれすら汚《きたな》らしく枯れたまんまだった。……
小さなトランクひとつ持たない風変りな旅行者の一種独特な旅愁。――私はさっぱり様子のわからない神戸駅に下りると、東京では見かけたことのない真っ白なタクシイを呼び止め、気軽に運賃をかけ合い、そこからそうしつけている者のように、元町通りの方へそれを走らせた。もっとも通行人を罵《ののし》る運転手の聞きなれないアクセントは私をちょっとばかり気づまりにさせたが。……
元町通り。店店が私には見知らない花のように開いていた。長い旅のあとなので、すっかり疲れきり、すこし熱気さえ帯びていたけれど、それでも私は見せかけだけは元気よくコツコツとステッキを突きながら、人々の跡から一体どんな方角へ行くのかわかりもせずに歩き続けていた。今夜何処へ泊ったものやらまだ目あてのない旅行者で自分があることに誰からも気づかれまいと思って……。私はとある珈琲店の中へ気軽そうにはいって行った。ただその店の名前が東京で私の行きつけている珈琲店の名前に似ていたばっかりに。私はそこから須磨《すま》のT君のところへ電話をかけた。T君はすぐ私のいる店へ来ると言った。そうして私がまだ一杯のオレンジエードを飲んでしまわないうちに、そのT君が元気よくはいって来た。彼はベレ帽をかぶり、なんだか象の皮のような外套《がいとう》を着込んでいた。
それから私たちは薄ぐらい山手通りを、狭い坂を上ったり下りたりしながら、小さなホテルから小さなホテルへと歩き廻っていた。しかし私の気に入ったホテルはひとつも無かった。私たちは再び中山手通りへ出た。しかしそのだだ広いだけ、かえって薄ぐらい感じのする電車通りには、ほとんど人影がなかった。T君が突然立ち止まった。そうして電車通りの向う側にある一つの赤ちゃけた小ぢんまりした建物を指さした。その家の上の、煤《すす》けたなりに白白とした看板には、
HOTEL ESSOYAN[#「HOTEL ESSOYAN」は斜体]
という横文字が、建物と同じような赤ちゃけた色で描かれてあるのが、ぼんやりと読めた。遠くからそれを一目見たきりで、その小さなホテルは私の気に入った。――と見ると、その電車通りに面した二階の窓の一つが開かれていて、それが細長い光りを暗い鋪道《ほどう》の上にくっきりと落していた。そしてその窓からは、逆光線を浴びているので、年よりなのか若い女なのか見当のつかない、そして髪の毛だけがきらきらと金色に光っている、一つの女の顔が、そのホテルの方へと電車の線路を横切りつつある私たちの方を窺《うかが》うようにしていたが――それはちょっと無気味な感じだった――私たちがその窓の下までくると、向うでも私たちを恐れるかのように、その窓は閉されてしまった。
私たちは小さな石段を昇り、そこのベルを押した。しかし、いつまでも、誰も出て来そうな気配がしない。そこでT君が再びベルを押したり、ノッブを廻してみたりしている間、私は石段を下りて、もう一度それがホテルであるかどうかを確かめるため、さっきの看板をふり仰いで見た。そうしてその赤ちゃけた横文字をホテル・エソワイアンと読みにくそうに口の中で発音しながら、今度はその大きな横文字の下方に、ずっと小さな字で TEL.[#「TEL.」は斜体]と描かれてあるのまで認めた。しかしその電話番号のあるべき場所は空虚のまんまだった。そしてそこだけが気のせいか他処より一そう白白と見えるのは、そこに最近まで書かれてあった電話番号がいま
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