旅の絵
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)衣裳戸棚《いしょうとだな》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一冊|独乙《ドイツ》語

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)[#ここから3字下げ]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Die Freunde, die ich geku:sst und geliebt,〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 ……なんだかごたごたした苦しい夢を見たあとで、やっと目がさめた。目をさましながら、私は自分の寝ている見知らない部屋の中を見まわした。見たこともないような大きな鏡ばかりの衣裳戸棚《いしょうとだな》、剥《は》げちょろの鏡台、じゅくじゅく音を立てているスティム、小さなナイト・テエブルの上に皺《しわ》くちゃになって載っている私のふだん吸ったことのないカメリヤの袋(私はそれを何処《どこ》の停車場で買ったのだか思い出せない)、それから枕《まくら》もとに投げ出されている私の所有物でないハイネの薄っぺらな詩集、――そう云うすべてのものが、ゆうべから私の身のまわりで、私にはすこしも構わずに、彼等の習慣どおりに生き続けているように見えた。今しがた見たことは確かに見たのだが、どうしても思い出せない変にごたごたした夢も、それまで自分はぐっすり眠っていたのだという感じを私に与えはしているものの、同時に、まるで他人の眠りを借りていたかのような気にも私をさせないことはなかった。……
 私はベッドから起き上ると、窓を開《あ》けに行った。しかしその窓のそとはすぐ高い石囲いで、石囲いの向うには曇った空と、隣りの庭のすっかり葉の落ちきった裸の枝先きが見えるきりだった。が、その窓を通して、しっきりなしに汽船のサイレンがはいってきた。その聞きなれない異様な叫びは、自分がいま東京から離れている、目に見えない長距離を、一瞬間、私の目に浮び上らせそうにした。そういう喧騒《けんそう》の中からひょっくり生れてきかかった一種の旅愁に似たもの、――私は再び窓を閉じた。……
 そうすると今度は、私の背中合わせの部屋から、タイプライタアの何かにじゃれているような音が聞えてきた。が、それはだんだんいらいらしたような音に変りながら、すぐ止《や》んでしまった。私はゆうべこのホテルに着くなりすぐ目に入れたところの、廊下の隅《すみ》にほうり出されていた、錆《さ》びかかったようなタイプライタアを思い出した。――それにしても、一体いまは何時ぐらいなのか少しも分らない。まだ朝飯は食わしてくれるのかしらと思いながら、私はボオイを呼ぶために、窓とは反対の側の、ドアを開《あ》けてみた。食堂は私の部屋と隣り合わせになっているらしい。そこからは途切れ途切れな話し声に雑《まじ》ってときどき皿にぶつかるスプーンやナイフの音が聞えてくる。……しかしそれは誰かがまだ朝飯を食べているのか、それとももう昼飯を食べ出しているのか、わからない。……どうも具合がへんだから、私はドアを開け放しにしておいて、もう食堂からボオイが出て来そうなものだと待ち伏せていた。
 やっと食堂からボオイが姿を現わした。支那人《しなじん》らしかった。私は彼が日本語を解するのかどうかを知らなかったので、英語と日本語をまぜこぜにしながら、
「Brekfast ――まだ出来る?」と聞いた。
「どうぞ――」と言ってボオイは空皿《あきざら》をもった手で食堂の入口を示したが、そのまま無愛想にコック場の方へ行ってしまった。
 私はなんだか一人きりでそんな食堂の中へはいって行くのが気づまりだったので、ボオイが再び皿を運んで来ながら私の部屋の前を通るのを待っていた。丁度その廊下の映っている鏡に向ってネクタイを何度も結び直しながら、あたかもそれがために何時《いつ》までも愚図愚図しているかのように装って。
 やっとのことで再び姿を現わしたボオイの跡にくっついて食堂の中へはいってみると、食堂と云うのもほんの名ばかりであって、二つの部屋をぶち抜いて、そこに安っぽい花模様のあるクロオスを掛けた卓子《テエブル》が五つか六つ置いてあるきりだった。中央の大きな卓子にはホテルの主人夫婦が珈琲《コオフィイ》を飲んでいた。そうして向うの壁ぎわの隅の小さな卓子には、青色のブラウスを着て、ブロンドの髪をした十八九の娘がひとりと、それから中庭に面して一段低くなったヴェランダのようなところに卓子が二つ置いてあったけれど、その一つには、黒っぽい着物を着たふたりの女――栗
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