がいにその料理店の主人らしいのが出て来て、仏蘭西語で愛想よく一人一人に挨拶《あいさつ》をしながら客たちの間を通り抜けて、その婦人の方へ近よって行った。その時その婦人が風呂敷包を開けながら、ヴェルネ氏に渡したものをちらっと見ると、それは一匹の可愛らしい三毛猫であった。ネコといったのを私はネープルと聞きまちがえたのであった。ヴェルネ氏はそれをにこにこして受取りながら、しきりに 〔Tre`s bien ! Tre`s bien !〕[#「〔Tre`s bien ! Tre`s bien !〕」は斜体]と繰り返している。おしまいには婦人までが鸚鵡《おうむ》がえし
に 〔Tre`s bien ?〕[#「〔Tre`s bien ?〕」は斜体]と二度ばかり口ごもる。低くはあるが、いかにも満足したような声である。
 私たちはそれからマカロニイやら何やらを食べて、その店を出た。そうして私たちはすぐ近くの波止場《はとば》の方へ足を向けた。あいにく曇っていていかにも寒い。海の色はなんだかどす黝《ぐろ》くさえあった。おまけに私がそいつの出帆に立会いたいと思っていた欧洲航路の郵船は、もうこんな年の暮になっては一艘《いっそう》も出帆しないことがわかった。私の失望は甚《はなは》だしかった。そうしてただ小さな蒸汽船だけが石油くさい波を立てながら右往左往しているきりだった。ときどき私たちとすれちがって行く仏蘭西の水兵たちの帽子の上に、ポンポン・ルウジュが、まるで嬉《うれ》しがっている心臓のように、ぴょんぴょん跳《は》ねていたが、それが私の沈んだ心臓と良い対照《コントラスト》をした。海岸通りの何とかいう薬屋のショオウィンドを覗《のぞ》いたら、パイプやなんかと一緒に五六冊、英吉利《イギリス》語の本が陳列されてあった。そのなかにふと海豚叢書《いるかそうしょ》の「プルウスト」を見つけたので、ゆうべの読みづらかったハイネの詩集を思い出しながら、その薬屋のなかへ這入ってその小さな本を買った。T君の話では、この店にはときどき随筆物で面白い本が来るのだそうだ。それからまた、私たちはその窓から電話やタイプライタアの強請《ゆす》ったり吃《ども》ったりする音の聞えてくる商館の間を何となくぶらぶらしてみたり、今では魚屋や八百屋《やおや》ばかりになった狭苦しい南京町《ナンキンまち》を肩をすり合せるようにして通り抜けたりしたの
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