ま見ると、夏の来るごとにいつもこんなに匂《におい》の高い花を咲かせていたものと見える。
「矢っ張、朴の花ですね。」そう私はこんどは確信をもって言えた。
「朴の花ですか?」深沢さんは鸚鵡返《おうむがえ》しに答えて、それからもう一ぺんその花を見上げながら言った。「いい花だなあ。」
 私も妻もそれに釣られて、再び一しょにその真白い花をしみじみと見上げているうちに、私は不意とこの村のここかしこの谷あいに、このような花をいまぽっかりと咲かせているにちがいない、幾つもの朴の木の立っているさびしい場所を、今だって自分はひとつひとつ思い出していくことが出来そうな気がした。――そう思って、私はその頃自分の孤独をいたわるようにしながら一人歩きをしていたあの谷、この谷と思いをさまよわせているうちに、急に私は何かに突きあたったかのように、ついそこの谷の奥で山椒喰《さんしょうくい》のかすかに啼いているのを耳に捉《とら》えた。が、それは二こえ三こえ啼いたきりで、それきり啼き止《や》んでしまった。
 気がつくと、私の傍で妻もその小鳥の啼くのを一しょに聴《き》いていたと見え、それがそのまま啼き止んでしまうと、私の方へ
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