た裏の掘立小屋に全く住みついてしまったようでした。三枝さんのところを見まわる度《たび》に、よっぽどその裏の小屋へまわって声でも掛けてやろうかと思うのですが、私なぞが寄ってやったって何しに来たというような無愛想な顔しか見せない爺やのこと故《ゆえ》、いつも何んだか気がすすまなくなって、またこんどにでもしようと思って途中から引っ返して来てしまうのが常でした。
「十二月になって、雪が二三度降り、いよいよ冬籠《ふゆごも》りをしだした時分になってから、うちの爺やがどうもこの頃うちを明けてばかりいるのに漸《ようや》っと気がつき出しました。爺やも変り者ですから、何かまた一人でこそこそやっているなと思って、少し気がかりな事もありましたので、或雪ぐもりの日、ふいとまた爺やが出掛けて行きましたので、私もあとをつけて行きました。冬になると、林もなにも裸になって、何処《どこ》もかもすっからかんと見透せるものですから、人に見つからないようにあとをつけて行くのは容易ではありません。が、爺やは何んにも気づかずに、お古の長靴で湿った落葉を踏んで、林の中をずんずん歩いて行きます。おや三枝さんの別荘へでも行くのかなと思っていますと、爺やはそこも素通りして、ずんずん日向さんの家へはいって行って、裏の方へまわったらしくそのまま姿を消してしまいましたので、うちの爺やが日向の爺やのところを訪《たず》ねて行くなんて珍らしい事もあればあるもんだと、ちょっと怪訝《けげん》におもいましたが、私はそのときはそれを見届けたきりで先きに帰って来てしまいました。
「その晩、私は爺やを炬燵《こたつ》の中へ呼んで、『珍らしいことをきいたが、爺やは何んだってな、この頃日向の爺やのところへ入浸しになっているそうじゃないか、どうしたんだい』と知らん顔をして訊きますと、爺やは神妙な顔をして、『病気だもんで、わっしゃちょっくら見舞ってやってるだあ』と何んの事もなさそうに言います。どんな塩梅《あんばい》だときいてみると、爺やの話ではよく分かりませんが、どうも胃癌《いがん》らしい。それにもう寝たっきりで、再起ののぞみもないようでした。「おかしなもので、ふだんはあんなに仲の悪かったうちの爺やが、相手がそんな具合に病気になってしまうと何かと一人で面倒を見てやっていたのです。そんな昔の喧嘩相手の世話になりきっている向うの爺やも爺やです。しかし冬になると一人の医者もない村のことですから、私どももそれをきいても、そのままにして置くより外には手の尽し方もなくなっていました。
「私は日向さんの方へも早速お知らせだけはしておきましたが、奥さんからは到底自分は行けそうもないから何分よろしく頼むと言って寄こされたきりでした。そうしてその年も暮れちかくなった或日、雪に埋った掘立小屋のなかでとうとう爺やは全く一人っきりで死んで行きました。
「日向さんの方からは、奥さんの代りにいつかの甥ごさんが見えられて、葬儀万端の事をなさいました。横川在の婆さんの方からは、とうとう誰も見えませんでした。」
 そこで漸っと不二男さんは爺やの死を語り終った。気がついて見ると、いつの間にか日が陰《かげ》って、私達がそれまですっかり話に気をとられて腰かけたままでいたヴェランダの上は、何か急に寒々《さむざむ》として来た。
「それはそうと日向さんのあとに来た人っていうのは一たいどんな人なの?」私は急に気もちを変えるようにそう言うと、妻にその三枝さんと背中合せになった隣りの宏壮《こうそう》な別荘を示しながら、「ほらあの通りだから。まるで場ちがいの化物屋敷みたいだ。……」
 其処《そこ》には、実際この村の四囲とは恐ろしく不釣合な、全部石づくりの、高い建物が、まるで幻のように、何か陰気な感じさえして、木と木の間から見え隠れしているのだった。
「ほんとに変な家だこと。」妻もそれをすこし眉《まゆ》をひそめるようにして見ながら、言った。
「あそこにその日向さんのお家があったの?」
「そうです」と不二男さんがそれを引きとって言った。
「あれは日向さんの別荘とその隣りにあった矢っ張|紅殻《べにがら》塗りの古い外人別荘の二軒並んでいたのを買いとって、それを一つ敷地にしてあんなものを建てたのです。ひと夏、その主《あるじ》というのが、若いお妾《めかけ》さんを連れて来ていましたが、その頃はまだ道ばたに立ち腐れになったまま、昔を知った人達になつかしがられていた例の水車を自分の家のなかへ移させたり、こちらの三枝さんの地所へまで目をつけて、それを欲《ほ》しがって何度も周旋人を寄こしたりして、奥さんを大へんお慍《おこ》らせになった事もありました。ところが、その翌年、その主人というのが急に死んでしまったのです。それからはときどきその若い息子《むすこ》さん達がお見えになるっきりなのです。……
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