りで住まわれるにはあの豆の花の咲いた家だけでは少々狭過ぎるほどの感じでした。爺やはまた裏の掘立小屋にひっ込んでしまいましたが、喧嘩相手の婆さんは居なくとも、今年は何か張りがあるようで、しかし相変らず黙々として何から何まで一人でやっていました。ひさしぶりに畑仕事にも精出している爺さんを相手にして、奥さんやお嬢さんのいかにも屈託なさそうな笑い声なぞが時ならず豆棚《まめだな》の奥から起ったりして、その小家の何もかもが再びもとのように蘇《よみがえ》ったようでした。
「なんでもその夏にはこんな出来事もありました。八月の半ばも過ぎてから、爺さんは自分の甥とかのいる田舎《いなか》へ鮎《あゆ》を食べに行こうと、奥さんとお嬢さんをしきりに誘っていました。いまでは爺やの唯一の身よりのものらしいその甥に、自分の世話になっていた立派な奥さんたちを一目見せておきたかったのでしょう。そこで或《ある》日、奥さん、お嬢さん、それに女中まで伴って、四人で汽車に乗り、小さな軽便に乗り換え、それからまた乗合に揺られて、その千曲川《ちくまがわ》上流の或小さな町まで行き着いてみると、あいにくな事には川が荒れていて、鮎が一向に釣れず、その日はさんざんな目に逢《あ》って夕方帰っておいでになりました。そうして帰りしなに皆さんで私どもへお立寄りになって行きましたが、お嬢さんはずけずけと爺やに不平を言いつづけてばかりいました。
『爺やったらあんな田舎へつれて行くんですもの。みんな私のことを毛唐《けとう》だとおもって珍らしがって見んの。私は構わないけれど、ママがお気の毒で見ていられはしなかったわ。……』
「しかし爺やは何を言われても、苦笑いにまぎらせながら、鉈豆《なたまめ》の煙管《きせる》をくわえたまま、ぼんやりと休んでいました。
「八月末になると、そのお嬢さんだけ先きに女中を連れてお引き上げになって行きましたが、奥さんはまだお残りになっていました。お向いの三枝さんのところでも、毎年の例で奥さんだけお一人お残りになっていらしったので、話し相手もあり、心丈夫でもあるので、爺やに飯を炊《た》いて貰ったり風呂を焚《た》かせたりして、いかにも気楽そうにしてお暮らしになっていました。
「ところが或日のこと、三枝さんの奥さんがもうそろそろ引き上げる準備に、女中を相手に日あたりのいいヴェランダにふとんのカヴァや何かを干していると、向うのもう大かた花の無くなった豆棚から日向さんの奥さんが不意に姿を現わし、それを見ると、何か気がかりな様子でこちらへ近づいて来て、
『もうお引き上げなの?』と尋ねました。
『いいえ、まだもうすこし居たいと思っているのだけれど……』そう三枝さんは答えました。
『いまのうちにぽつぽつと片しておかないと、雨でも降り出したらと思うものだから……』
『そうね。私の方もそろそろ帰ってやらないと圭子《けいこ》も困っているらしいの』と日向さんも言って、それから急に声を低くして、「だけど、実は困ってしまっているのよ。うちの爺やがなんだか体の具合が悪いようなの。この頃は胸が痛いって、お粥《かゆ》ばかり食べているのよ。熱もあるようなので、寝ていろって幾ら言っても言うことをきかないで、一日じゅう何かしらやっていては、夜など私の知らない間にこっそりとお酒なんぞ飲んでいるんでしょう。あんな事をしていて、どっと寝つきでもしたら、どうしたらいいのかしら。まあ私でもこちらにいる間は、何とか世話をしてやれるけれど、そう私だっていつまでも居られやしないのだから……』
「三枝さんはそういう話を聞きながらも、見たところふだんと変らずに爺やが何かと働いているのを見ていますので、そう心配するほどのことはないのだろうと相手の気休めになるような事ばかり言うと、日向さんもいつかそんな気になって行かれたものと見えます。
「九月も末近くなると、先《ま》ず三枝さんがお引き上げになり、程経《ほどへ》て日向さんもとうとう爺や一人をお残しになって東京へお帰りになられました。
「十月、十一月と過ぎましたが、あとに残った爺やはどうしているのか、私どもにはさっぱり姿を見せないようになりました。うちの爺やとは仲違《なかたがい》をしていますので、爺やにきいても何も知らないようだし、少し体の具合が悪いようなことも奥さんが帰りがけにちょっと話しておられたので、もしやと、気にはなっていました。前から爺や同志で顔を合わせたがらないようなので、自然三枝さんの別荘の見まわりだけは私が自分でするようにしていましたが、秋も深くなってその時分になると、もうまわりの木々がすっかり落葉し尽し、木々の枝を透いてあちこちの釘《くぎ》づけになった別荘が露《あら》わに見えて来ますが、日向さんのところはいつも締まっていて、ひっそりとしています。
「爺やはこの頃は自分で建て
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