「そうなのかい、どうりであの家はいつも厭にひっそりしていると思った。」私はそんな自分の虫の好かない住人達のことよりも、その人達のために取払われた水車の跡が、いまは南瓜の畑かなんかになって、其処にはただ三四尺の小さな流がもとのままに潺々《せんせん》たるせせらぎの音を立てているだけなのに自分勝手な思いを馳《は》せていた。
「しかしその若い息子さん達には、こんな山の避暑地なぞ面白くもないと見えて、八月頃、いつも突然真夜中なんぞにお友達を大ぜい連れて自動車で乗りつけ、一週間ばかり騒いで暮らして、それからまた嵐《あらし》のように帰って行っておしまいです。そうしてあとにはまだこの土地に馴染《なじみ》のない他所者《よそもの》の別荘番が残って、村人からも忘れられたように、ひっそりと暮らしているきりです。……」

        五

 その晩、私達は宿の二階の部屋に寝転《ねころ》びながら、深沢さんが夕方描き上げて来た雑木林の絵を前にして、いろんなこの村の話をしあっていたが、きょう宿の主に聞いた爺《じい》やの話も出た。
「こういう山の村なんぞに流れ込んで来ている爺やなんというものは、それまでは何処《どこ》で何を渡世にしていたのかも分からん奴《やつ》が多いんだそうですよ」と私は言い畢《お》えた。「その孤独になって死んだ爺やだって、それから此処《ここ》んちのおとなしそうな爺やだって、この村へ渡って来るまでは何をしていたか誰も知らない。――そういう気心の知れないような他所者《よそもの》が多いから、村の人達だってあまり附き合いたがらないし、自然何処の別荘番も冬なんぞになるとわれわれの考えもつかないような孤独な暮らしをしているらしいな。そういう奴がみんないまの話の爺やみたいに、何処の誰ということもなしに死んで行くんだと思うと、ちょっと堪《たま》らない気がしますね。……」
 蒙古《もうこ》でいつ完成するともつかない仕事をしている同じ画家の夫を持って、長い孤独な生活をしている深沢さんは、私の話を聞きながら、何度となく大きな目をみひらいては、深くうなずいていた。
 夜はまだかなり寒かった。その晩はみんなで早くから床にはいることにした。
 深沢さんと妻とが床を並べて寝た隣りの部屋からはやがて二人の寝息らしいものが聞えて来たが、私ひとりだけはどうしてだかなかなか寝つかれなかった。
 言ってみれば、いまの自分と全くかかわりのないような人たちの運命の浮沈が、それが自分には何んのかかわりもない故《ゆえ》に、反《かえ》って切ないほどはっきりと胸に浮んで来て、いかんともしがたかった。それにまた、爺やも水車も豆の花の棚《たな》も何もかも自分のよく知っていたものがこの村からもだんだん絶えてゆくような思いすら誘われて、私の心の動揺はいつまでもやみそうもなかった。
 遠くの谷で夜鷹《よたか》が不気味にギョギョギョといって啼《な》き出した。これあ溜《た》まらないと思って一しょう懸命に目をつぶっているうち、私は突然、おととし結婚するとすぐまだ夏になるかならないうちにこの村へ越して来てしまって、きょうその前を通ってみた、水源地に近いあの樅《もみ》の木かげの山小屋で二人きりで暮らし出していた時分、よく夜なかにその夜鷹の啼き声をきいては互に気味悪がっていたことなぞを思い出した。丁度、その小屋の裏がすぐ木立の深い谷になっていて、夜なかになると夜鷹がその谷から谷へと大きな環《わ》を描きながら飛びめぐっているらしいのが、その不気味な啼き声の或《あるい》は遠のいたり或は近づいて来たりする具合で手にとるように私達には分かった。けさ深沢さんと一緒にその山小屋を見てから更に奥の方へ下って行った谷がそれだ。その谷の奥で、いまもその夜鷹が啼き出しているらしかった。私はなかなか寝つかれないまま、けさ歩きまわっていたその谷じゅうに自分の持って行き場所のない想いをさまよわせていたが、そのうちにふいにそれが一つのものに落着いたように、その谷かげで見つけた朴《ほお》の木の花が急に鮮かに浮んで来た。私はおもわず何かほっとしながら、その真白い、いい匂《におい》のする花でもって自分のどうにもならない心をすっかり占めさせて行った。



底本:「幼年時代・晩夏」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年8月5日発行
   1970(昭和45)年1月30日16刷改版
   1987(昭和62)年9月15日38刷
初出:「文藝春秋」
   1941(昭和16)年1月号
初収単行本:「晩夏」甲鳥書林
   1941(昭和16)年9月20日
※初出情報は、「堀辰雄全集第2巻」筑摩書房、1977(昭和52)年8月30日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファ
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