木の葉なんぞのよりも、目立って大きい若葉を見て、一目でそれが朴《ほお》の木の葉であることを思い出した。でも私は、
「朴の木ではないかな?……」と、まだ半信半疑で言った。私もその木がこうやって花咲いているのを見かけるのは今がはじめてだからである。……
三四年前、まだ私もいまのように結婚せず、この村で一年の半分以上を一人でぶらぶら暮らしていた時分、十月も末になると村じゅうどの木もどの木も落葉し出して、それから数日のうちに大抵の木が落葉し尽す――そんな落葉の一ぱいに溜《た》まった山かげを私は好んで歩きまわったが、そういう折に私はそれ等《ら》の落葉に雑《まじ》った図抜けて大きな枯葉をうっかりと踏んづけたりしてそれの立てる乾《かわ》いた音に非常にさびしい思いをしたものだった。それは私自身だってかなりさびしい思いを持ってはいた。けれども、そんな大きな枯葉の目に立つほど溜《たま》っているような谷あいそのものも、なかなかさびしい場所であった。それが朴と云う木の葉であることを私は誰にともなく聞いて知るようになっていた。が、その朴の木にどんな花が咲くのかその頃の私は全然考えてもみなかった。――それが、いま見ると、夏の来るごとにいつもこんなに匂《におい》の高い花を咲かせていたものと見える。
「矢っ張、朴の花ですね。」そう私はこんどは確信をもって言えた。
「朴の花ですか?」深沢さんは鸚鵡返《おうむがえ》しに答えて、それからもう一ぺんその花を見上げながら言った。「いい花だなあ。」
私も妻もそれに釣られて、再び一しょにその真白い花をしみじみと見上げているうちに、私は不意とこの村のここかしこの谷あいに、このような花をいまぽっかりと咲かせているにちがいない、幾つもの朴の木の立っているさびしい場所を、今だって自分はひとつひとつ思い出していくことが出来そうな気がした。――そう思って、私はその頃自分の孤独をいたわるようにしながら一人歩きをしていたあの谷、この谷と思いをさまよわせているうちに、急に私は何かに突きあたったかのように、ついそこの谷の奥で山椒喰《さんしょうくい》のかすかに啼いているのを耳に捉《とら》えた。が、それは二こえ三こえ啼いたきりで、それきり啼き止《や》んでしまった。
気がつくと、私の傍で妻もその小鳥の啼くのを一しょに聴《き》いていたと見え、それがそのまま啼き止んでしまうと、私の方へ
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