朴の咲く頃
堀辰雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)山椒喰《さんしょうくい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)元来|日向《ひゅうが》さん

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)真向かいのわが家[#「わが家」に傍点]
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        一

 あたりはしいんとしていて、ときおり谷のもっと奥から山椒喰《さんしょうくい》のかすかな啼《な》き声が絶え絶えに聞えて来るばかりだった。そんな谷あいの山かげに、他の雑木に雑《まじ》って、何んの木だか、目立って大きな葉を簇《むら》がらせた一本の丈高《たけたか》い木が、その枝ごとに、白く赫《かがや》かしい花を一輪々々ぽっかりと咲かせていた。……
 それは今年《ことし》の夏になろうとする頃で、私と妻は、この村にはじめて来た画家の深沢さんを案内しながら、近所の林のなかを歩き廻った挙句《あげく》、その林の奥深くにある大きな樅《もみ》の木かげの別荘(そこで私達はおととし結婚したばかりのとき半年ほど暮らしていたのだった……)の前を通って、そのもっと奥にある村の水源地まで上って行ったときのことであった。その村を一目に見下ろすことの出来る頂上で少し遊んだ後、こんどはすぐ裏側の谷へ抜け、殆《ほとん》ど水が涸《か》れて河床の露出した谷川に沿いながら、村の方へ下りて来た。雑木林はなかなか尽きそうで尽きなかった。漸《ようや》くその雑木林の中に見おぼえのある一軒の別荘が見え出した。私達は去年の落葉の溜《た》まったその張出縁を借りて一休みして行くことにした。
 女の画家らしく草花などを描くことの好きな深沢さんは、ひとり離れて縁先に腰を下ろしながら、道ばたで写生して来たさまざまな花の絵に軽く絵具をなすっていたがそれを一とおりすますと、絵具函《えのぐばこ》を脇《わき》に置いて、気軽くひょいと仰向けにそこへ寝そべろうとした。と、急に起上って、「あら、あんな真白な花が咲いている。」そう頭上を指《さ》しながら、もとのように腰をかけなおして、まぶしそうにそっちの方を見上げた。「いい花だなあ。ちょっと泰山木《たいさんぼく》みたいだけれど……」
 私も妻も立ち上って行って、一しょにそれを見上げた。妻がいった。「泰山木にしては葉がすこし……。」
 そう言われて、私は漸っと他の楢《なら》や櫨《はぜ》の
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