になるかならないうちに、其処を引き上げて行ってしまいました。……
「九月になって間もない或る朝、丁度こちらの三枝さんの奥さんが此処《ここ》のヴェランダに出て新聞を見ていますと、きたない風呂敷《ふろしき》包を肩にぶらさげ、蝙蝠傘《こうもりがさ》を手にした婆さんがきょときょとしながら庭先へはいって来るので、また物売りかと思って見ると、それはお向いのお婆さんでした。とうとう辛抱しきれずに爺やと別れて、自分だけはこれから横川《よこがわ》の在《ざい》まで自分の先夫の娘を頼《たよ》って行くのだと言います。こちらの三枝さんの奥さんは、日向さんの奥さんとは昔馴染《むかしなじみ》でしたので、婆さんは出しなにちょっといとま乞《ごい》に立寄ったのでした。
「三枝さんはそれまでのいろいろの事情をよく御存じのお方でしたので、その婆さんのことも気の毒に思われて、『あなたはとうとう行っておしまいになるんですか。もうすこしじっとしていらっしゃればいいのに……』といたわるように言われました。
「そう言われると、婆さんはつい日頃の愚痴が出て、いまさらのように日向家の仕打ちから、自分から見れば爺さんは呆《あき》れ返るほどのお人好しだのに、この村では誰一人にもそれが分からず、こんな折にも相談相手になって貰えるもののない事から、その挙句この村中の誰れかれの悪口を言い出すものですから、しまいには三枝さんの奥さんも持て余してしまって、いくらかのものを包んでやって早く帰らせようとしました。婆さんは何度もお礼をいってそれを受取りましたが、すぐには立去らずに、こんどはこれから頼って行こうとする横川在の先夫の娘のことを何かと話し出して、いまはそれが百姓家に嫁《とつ》いでいて、かなり裕福に暮らし、これまでも折々に自分が訪《たず》ねていくと『おばあさんだけならいつでも引きとるから来なさるといい』と言って、帰りがけには必ず米や野菜なぞを一人ではとても持てないほど持たせてよこす事なぞをくどくどと繰り返していました。……
「そんな事があってから、一日おいて、三日目の朝、また三枝さんがいつものように一人でヴェランダで新聞を読んでいますと、何か向いの庭の中で聞きなれない人々の声に雑《まじ》って爺やのしゃがれた声が聞えてくるので、どうしたのだろうと思っていました。そのうち爺やが二三人の見なれない男たちに指図《さしず》しながら、そこらの
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