見えました。それから少し歩いて行って、こんどは林の入口に、あの亡くなられた御主人のお好きだった例の水車が、もう半分朽ちかけたまま、それでもまだどうにかこうにか廻転しながら昔の俤《おもかげ》をとどめているのを目に入れますと、私なんぞでもああお気の毒だと何んということもなしに思ったものでした。
「爺や夫婦は旦那《だんな》様が亡くなってからも、もとどおりに奥様のために働いていました。あなた達のこんどお借りになった家は、もと、その爺や夫婦に冬住まわせるようにお建てになったもので、夏だけ人に借し、その間爺やたちは日向さんの方で寝起きしていたのです。その時分から爺やはまめにその家のまわりの空地に豆だの胡瓜《きゅうり》だの葱《ねぎ》だのの畑を作っていましたが、みんな御主人に召し上っていただくために丹誠《たんせい》したのだからといって、そこの家を借りた人にもつい鼻先にある畑のものには一切手を出させませんでした。そんな事を知らずに、その人達が自分の畑のような気になって勝手に葱なぞをとったりしていた事が分かろうものなら、爺やは恐ろしい権幕で呶鳴《どな》りこんだりしたものでした。日向さんの奥さんは葱一本ぐらいのことで、その方たちに申訣《もうしわ》けがないと一人で気を揉《も》んでおいででしたが、別に爺やを叱《しか》ることもせずにそのままにして置かれたようでした。どうせこんな山村のことですから、どこの爺やも難物ぞろいでしたが、まあ日向さんの爺やといえば、その中での難物でした。
「そんな風に、奥さんの方でも御主人の亡くなられた跡はともすると爺やに一目《いちもく》置いているように見えましたが、それは一つには爺やにやるものを殆どやらずにいたからでもあったのでしょう。その代りに、いま売りに出している別荘が売れたら、少しは纒《まとま》った金を分けてやるような約束をしておいたらしいのです。ところが漸っとその別荘が売れた。五年前のことです。買手は関西の或《ある》実業家で、仲に立った奥さんの甥《おい》を相手にさんざん値切って、それを五千円で買いとった。前から見ると無茶な値ですが、よほど奥さんの方もお困りになって来られたものと見えて、それをとうとうそんな値でお手放しになってしまわれた。そのときはその甥ごさんが一切とり仕切って、こちらへもお見えになりましたが、なにしろ予想外の値にしかならなかったので、その甥が爺
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング