一度、あっちの爺やの畑の南瓜《かぼちゃ》を君んちの爺やが何んとかしたとか云って、どういう行きがかりだったか、たいへん酔払って室生さんちの門の前まで来て、中へはいらずにいつまでも悪態をついていた事もあったね。」
「そんな事もありましたっけね。」不二男さんは少し苦笑いした。それから急に真顔になって、
「私なんぞも、これまであの爺やは飲んだくれで、因業な奴だとおもっておりましたけれど、死んでからいろいろ話を聞いてみると、かわいそうな爺やでした。……」
 そう前置きをして、不二男さんも私達の隣りに腰を下ろしながら、何か思い出ふかそうに話し出した。

        三

「あなたなぞは随分お古いから御存知でしょうが、この裏の通りにあったあの水車ですね。――昔はあの裏通りのことを|水車の道《ウォタアウィル・レエン》なんぞと外人達がいっていましたが――あの水車というのは、元来|日向《ひゅうが》さんの御主人が拵《こしら》えさせて、自分の別荘の方へ山水を引かせていたものなのですが、まあこの辺では昔からあれが唯一の水車でして、あの林の入口でごとんごとんと音を立てながら日ねもす廻っていた長閑《のどか》な様子は何んとなく気持のいいものでした。ところが、その日向さんの御主人が七八年前に急にお亡《な》くなりになった。著名な政治家でしたけれども、これがまたこの上もなく廉潔な方でしたので、殆《ほとん》ど財産らしいものは何んにもお残しにならなかったものですから、たいへん奥さんたちはお困りになられたようで、その別荘もすぐ売りに出されました。最初は一万円位でというお話でした。それは地所も千二三百坪からありましたし、場所も申分はないのですが、何しろ家は古いし、景気も悪かった時分ですから、なかなか買手がつきませんでね。――それに奥さんも割合に暢気《のんき》なお方なので、いくらお困りになられていてもそれで買手が無ければしようがないといった風で、その話はそのままになすって、それからまた引続き二三年の間夏になると唯一人のお嬢さんをお連れになってはいらしっておりました。お嬢さんももう十七八におなりになっていましたが、テニスがお好きで、昔と変らずに同じ年頃のお友達を集めては、庭の一隅にあったテニスコオトで愉快そうに球《たま》を打ち合っていらっしゃるのが、往来からもダリヤやフランス菊なぞの咲き乱れた間に垣間《かいま》
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