何と遠いことだ……
 が、いまだけはともかくもこうした幸福そうな私達、――この私達には、現在、花だって、犬だって、少しも事は欠かない。――例えば、ついこの間、私がすぐ裏の樅《もみ》の木かげにちょっと目につかないくらいに小さな青い花が一面に咲いているのを見つけて、何の花だか知らないけれどいかにも可憐《かれん》だったので、その見本のように一輪だけ摘んで得意そうに持ち帰ってきたら、女房の奴に「あなたが菫《すみれ》の花なんぞを摘んできて。それにうちの庭にだってたくさん咲いているじゃあないの?」と笑われた。なるほどそう言われて見ると、わが庭の隅々にもそれと同じ可憐な花が一ぱい咲いているのに漸と気がついた。それにしても菫の花をいままで少しも知らずにいた私の迂濶《うかつ》さ!……だがそんな迂濶なところのある私だけに、いま、――こんな人生のこんな瞬間に、――菫の花みたいなものまでもこうやってしみじみと見て楽しんでいられるのだからな、と誰に向ってともなく負け惜しむ。
 夕方、女房が食事の支度をし出す頃になると、何処から来るのか、エアデルテリヤの雑種らしい大きな犬が姿をあらわす。人恋しげな女房がそんな犬ま
前へ 次へ
全7ページ中6ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング