卜居
津村信夫に
堀辰雄

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)谿谷《けいこく》になっていて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一家|団欒《だんらん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)自分の椅子[#「自分の椅子」に傍点]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)端西などで 〔Cha^let〕 というのだろうか
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

 この家のすぐ裏がやや深い谿谷《けいこく》になっていて――この頃など夜の明け切らないうちから其処《そこ》で雉子《きじ》がけたたましく啼き立てるので、いつも私達はまだ眠いのに目を覚ましてしまう程だが、――それでも私はその谿谷が悪《にく》くなく、よく小さな焚木《たきぎ》を拾いがてらずんずん下の方まで降りていったりする。その谿谷の丁度向う側にある、緑色の屋根をした大きなヴィラが、いまはまだ木の枝を透いて手にとるように見える位。その谷間の雑木林はやっと芽を出したばかりだが、今日なんぞ、そこで焚木を拾っていたら、ぶんと蚋《ぶよ》らしいものがいきなり飛んできて、私の顔のまわりにいつまでもつきまとっていた。少しうるさかったが、なんだかちょっとそれに夏の気分を感じて、懐かしくもあった。――それほどもう夏の或るものがついそこまで来かけているというのに、それを除いたすべてのものにはまだ春さえ充分には行き渡っていない。夜なんぞはこれで想像以上に寒い。いまだっても、この手紙を書きながら、ファイア・プレェスに火を焚いているほどだ。しかしそれは私が昼間谷から自分で採ってきた僅かな焚木でも事足りる、わざわざ薪《まき》を買うほどのこともない……と、まあ、そういった位の余寒さだ。
 そう、まだ君にはこの新居のことを話さなかったね。御想像どおりの、相変らずの不便な山の中で、それに慣れっこの自分はともかくも、はじめての女房には、いささか可哀そうな位だし、それに家がすこし二人だけで住むのには大き過ぎたけれども、小屋のつくりが(こんなのを端西などで 〔Cha^let〕 というのだろうか)いかにも気に入ったので、思い切って借りた。――本当をいうと、こんな一番山奥の、それに
次へ
全4ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング