を捕まへたところだ」
 それから別の聲がする。
「今朝が最初の媾曳《ランデブウ》だつたのさ」
 今まで經驗したことのない氣持が僕を引つたくる。僕はそれが苦痛であるかどうか分らない。友人はしきりに口を動かしてゐる。しかし僕はもうそれからいかなる言葉も聞きとらない。僕はふと、僕の顏の上にまださつき傳染した微笑の漂つてゐるのを感じる。それは僕自身にも實に思ひがけないことだ。しかし僕はさういふ自分自身の表面からも僕が非常に遠ざかつてしまつてゐるのを感じる。それによつて潛水夫のやうに、僕は僕の沈んでゐる苦痛の深さを測定する。そして海の表面にぶつかりあふ浪の音が海底にやつと屆くやうに、音樂や皿の音が僕のところにやつと屆いてくる。
 僕は出來るだけアルコオルの力によつて浮き上らうと努力する。
「彼は孔のやうに食《の》む」
「彼は苦しさうだ」
「彼の脣はふるへてゐる」
「何が彼を苦しめてゐるのだ」
 僕は少しづつ浮き上つて行きながら、漸くさういふ友人たちの氣づかはしさうな視線に對して可感になる。しかし彼等はすつかり僕を見拔いてゐない。僕は彼等に僕が病氣であることを信じさせるのに成功する。僕はもう彼女の
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