顏をさがすだけの氣力すらない。
カフエ・シヤノアルを出て友人等に別れると、僕は一人でタクシイに乘る。僕は力なく搖すぶられながら、運轉手の大きな肩を見つめる。あたりが急に暗くなる。近道をするために自動車は上野公園の森の中を拔けて行くのである。「おい」僕は思はず運轉手の肩に手をかけようとする。それが急に槇の大きな肩を思ひ起させたからである。しかし僕の重い手は僕の身體を殆んど離れようとしない。僕の心臟は悲しみでしめつけられる。ヘツドライトが芝生の一部分だけを照らし出す。その芝生によつて、今朝の夢が僕の中に急によみがへる。夢の中の彼女の顏が、僕の顏に觸れるくらゐ近づいてくる。しかし、その顏は僕を不器用に慰める。
3
眞夏の日々。
太陽の強烈な光は、金魚鉢の中の金魚をよく見せないやうに、僕の心の中の悲しみを僕にはつきりと見せない。そして暑さが僕のあらゆる感覺を麻痺させる。僕には僕のまはりを取りまいてゐるものが何であるか殆どわからない。僕はただフライパンの臭ひと洗濯物の反射と窓の下を通る自動車の爆音の中にぼんやりしてゐる。
が夜がくると、僕には僕の悲しみがはつきりと
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