欲した。
「これを金にしないか」
 僕はその腕時計を外して、それを槇に渡した。
「これあ、いい時計だな」
 さう言ひながら、僕の腕時計を手にとつて見てゐる槇を、僕は少女のやうな眼つきで、ぢつと見つめてゐた。

 十時頃、ジジ・バアの中へ僕等は入つて行つた。入つて行きながら、僕は椅子につまづいて、それを一人の痩せた男の足の上に倒した。僕は笑つた。その男は立上つて、僕の腕を掴まへようとした。槇が横から男の胸を突いた。男はよろめいて元の椅子に尻をついた。そして再び立上らうとするのを、隣りの男に止められた。男は僕等を罵つた。僕等は笑ひながら一つの汚ないテイブルのまはりに坐つた。するとそこへ薄い半透明な着物をきた一人の女が近づいて來た。そして僕と槇との間に無理に割り込んで坐つた。
「飮むかい」槇は自分のウイスキイのグラスを女の前に置いた。
 女はそのグラスを手に持たうとしないで、それを透かすやうに見てゐた。友人の一人が一方の眼をつぶり、他方の眼を大きく開けながら、皮肉さうに彼等を僕に示した。僕は眼たたきをしてそれに答へた。
 その女はどこかシヤノアルの女に似てゐた。その類似が僕を非常に動かした。
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