だつた。僕は彼の顏にうつとり見入りながら、それを強く妬まずには居られないのである。僕は、さういふ僕の中の動搖を彼等から隱すために、新しい假面の必要を感じた。僕は煙草に火をつけ、僕の顔の上に微笑をきざみつけながら、思ひ切つて言つた。
「この頃どうしてゐるの? もうシヤノアルには行かないの?」
「うん、行かない」槇はすこし重苦しく答へた。それから友人の方に急に顏を向けて、「あんなところよりもつと面白いところがあるんだな」
「ジジ・バアか」友人は剃刀を動かしながら、それに應じた。
 僕のはじめて聞いたバアの名前。僕の想像は、そこを非常に猥褻な場所のやうに描き出す。僕はさういふ「惡所」を、彼の中に鬱積してゐる欲望を槇が吐き出すためには一番ふさはしい場所のやうに思つた。そして僕は、どこまでも悲しさうにしてゐる自分自身に比べて、彼のさういふ粗暴な生き方を、ずつと強く見出した。そして僕は何か彼に甘えたいやうな氣持になつた。
「今夜もそこへ行くの?」
「行きたいんだが、金がないんだ」
「お前ないか」剃刀が僕をふり向く。
「僕もないよ」
 僕はその時、僕の腕時計を思ひ浮べた。僕は彼等に愛らしく見える事を
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