失はせるやうな苦痛をいつも伴つてゐる。
僕は、もう僕の中にもつれ合つてゐる二つの心は、どちらが僕のであるか、どちらが彼女のであるか、見分けることが出來ない。
6
僕等が別れようとした時、彼女は
「いま何時?」と僕に訊いた。僕は腕時計をしてゐる手を出した。彼女は眼を細めながらそれをのぞきこんだ。僕はその表情を美しいと思つた。
僕は、一人になつてから暫くすると、急にその腕時計を思ひ浮べた。僕は歩きながら、僕の父から貰つた金がもうすつかり無くなつてしまつてゐることを考へてゐた。僕は自分で何とかして小遣を少しこしらへなければならなかつた。僕は先づ、かういふ場合に何度も賣拂つた僕の多くの本のことを思ひ浮べた。しかし本はもう殆ど僕のところには殘つてゐなかつた。僕が突然僕の腕時計を思ひ浮べたのは、この時であつた。
しかし僕はかういふものを金に替へるにはどうしたらいいか知らなかつた。僕はさういふ事に慣れてゐる友人の一人を思ひ出した。僕はそれを彼に頼むために思ひ切つて彼のアパアトメントに行く事にした。
僕は、顏を石鹸の泡だらけにして髭を剃つてゐるその友人を、彼の狹苦しい
前へ
次へ
全30ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング