ル・ヤニングスを讚美する。何といふすばらしい肩。さう言つて、彼女はヤニングスが殺人の場面を彼の肩のみで演じたのを僕に思ひ出させようとする。その時僕の眼に浮んだのは、しかしヤニングスの肩ではなく、それに何處か似てゐる槇の肩である。僕はふと、六月の或日、槇と一しよに町を散歩してゐたときの事を思ひ出す。僕は彼が新聞を買つてゐるのを待ちながら、一人の女が僕等の前を通り過ぎるのを見てゐた。その女は僕を見ずに、槇の大きな肩をぢつと見上げながら、通り過ぎて行つた。……その思ひ出の中でいつかその見知らない女と彼女とが入れ代つてしまふ。僕はその思ひ出の中で彼女が槇の肩をぢつと見つめてゐるのを見る。そして僕は、彼女がいま無意識のうちにヤニングスの肩と槇の肩をごつちやにしてゐるのだと信じる。しかし僕は不公平でない。僕は槇の肩を實にすばらしく感じる。そしてそのどつしりした肩を自分の肩に押しつけられるのを、彼女が欲するやうに、僕も欲せずにはゐられなくなる。
 僕はもはや僕が彼女の眼を通してしか世界を見ようとしないのに氣づく。我々の心がネクタイのやうに固く結び合はされるとき我々に現はれて來る一つの徴候。それは氣を
前へ 次へ
全30ページ中23ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
堀 辰雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング