の方に顏を近よせる。
「槇は今夜、あの娘《メツチエン》に手紙を渡さうとしてゐるのだ」
 彼はすこし高い聲でそれを繰り返す。その聲で槇ともう一人の友人も僕等の方をふり向く。眞面目に微笑する。そしてまた、前のやうな沈默に歸つてしまふ。僕はひとり顏色を變へる。僕はそれを煙草の煙りで隱さうとする。しかし、今まで快く感じられてゐた沈默が急に僕には呼吸《いき》苦しくなり出す。ジヤズが僕の咽頭《のど》をしめる。僕はグラスをひつたくる。僕はそれを飮まうとする。が、そのグラスの底に見える僕の狂熱した兩眼が僕を怖れさせる。僕はもうそれ以上そこに居ることが出來ない。
 僕はヴエランダに逃れ出る。そこの薄くらがりは僕の狂熱した眼《まなこ》を冷やす。そして僕は誰からも見られずに、向うの方に煽風機に吹かれてゐる娘をぢつと見てゐることが出來る。風のために顏をしかめてゐるのが彼女に思ひがけない神々しさを與へてゐる。ふと、彼女の顏の線が動搖する。彼女がこちらを向いて笑ひだす。一瞬間、僕はヴエランダから彼女をぢつと見てゐる僕を認めて彼女が笑つたのだと信じる。が、僕はすぐ自分の過失に氣づく。うす暗いヴエランダに立つてゐる僕
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