の姿は彼女の方からは見える訣がない。彼女は誰かに來いと合圖をされたのだらうか。僕はそれが槇ではないかと疑ふ。彼女は思ひ切つたやうにこちらを向いて歩き出す。
僕は僕の手を果實のやうに重く感じる。僕はそれをヴエランダの手すりの上に置く。手すりは僕の手を埃だらけにする。
2
その夜、疾走してゐる自轉車が倒れるやうに、僕の心は急に倒れた。僕は彼女から僕のあらゆる心の速度を得てゐたのだ。それをいま、僕は一度に失つてしまつた。僕にはもう自分の力だけでは再び起ち上ることが出來ないやうに思はれるのだ。
「電話ですよ」母がさう云つて僕の部屋に入つてくる。僕は返事をしない。母は僕に叱言を云ふ。僕はやつと母の顏を見上げる。そして「このままそつとして置いて下さい」僕は母にさういふ表情をする。母は氣づかはしげに僕を見て部屋から出て行く。
夜になつても、僕はもうカフエ・シヤノアルに行かうとしない。僕はもう彼女のところに、友人たちのところに行かうとしない。僕は自分の部屋の中にぢつと動かないでゐるのだ。そして僕は何もしないためにあらゆる努力をする。僕は机の上に肱をついて、兩手で僕の頭を支
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