される者が不安さうに外科醫の一つ一つの動作を見つめるやうに、彼女の方ばかりを見てゐる。
 突然オオケストラが起る。彼女はそつとボツクスを離れる。そして僕を見ずに僕の方に何氣なささうに歩いてくる。そして僕から五六歩のところで、すこし顏を上げる。彼女の眼が僕の眼にぶつかる。すると彼女は急に微笑を浮べながら、そのまま歩きにくさうに、僕に近よつてくる。そして僕の前に默つて立止まる。僕も默つてゐる。默つてゐることしか出來ない。
 手術の間の息苦しい沈默。
 僕は彼女の手を見つめてゐるばかりだ。あまり強く見つめてゐるので、眼が疲れて來たせゐか、その手が急にふるへてゐるやうに見える。すると眩暈《めまひ》が僕の額を暗くし、混亂させ、それから漸く消えて行く。
「あら、煙草の灰が落ちましたわ」
 手術の終つたことを知らせる彼女の微妙な注意。

 僕の手術の經過は全く奇蹟的だ。彼女の顏が急に生き生きと、信じられないほど大きい感じで僕の前に現れ、もはやそこを立去らない。それは、クロオズアツプされた一つの顏がスクリインからあらゆるものを消してしまふやうに、槇の存在、僕の思ひ出の全部、僕の未來の全部を、僕の前から
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