消してしまふ。これは眞の經過であるか、それとも一時的な經過に過ぎないのか。しかし、そんなことは僕にはどうでもよい。僕の前にあるのは、唯、彼女の大きく美しい顏ばかりだ。そしてその他には、その顏が僕の中に生じさせる、もはやそれ無しには僕の生きられないやうな、一種の痛々しい快感があるだけである。
 僕は再び毎晩のやうにカフエ・シヤノアルに行き出してゐる自分自身を發見する。僕の友人は今はもう誰もここへは來ない。それは反つて僕に、友人たちの間にゐた時には僕に全く缺けてゐた大膽さを起させ、そしてそれが僕の行動を支配した。

 そして彼女は――
 或夜、僕が註文した酒を待つてゐた間、丁度彼女が隣りの客の去つたあとのテイブルを片づけてゐたことがあつた。その時、僕はぢつと彼女を見ながら、彼女が非常にゆるやかな手つきで、殆ど水の中の動作のやうに、皿やナイフを動かしてゐるのを發見した。その動作のゆるやかさは僕に見つめられ、僕に愛されてゐることの敏感な意識からおのづから生れてくるやうに思はれた。僕はそのゆるやかさを何か超自然的なものに感じ、僕が彼女から愛されてゐることを信じずにはゐられなかつた。

 別の夜、
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