ル・ヤニングスを讚美する。何といふすばらしい肩。さう言つて、彼女はヤニングスが殺人の場面を彼の肩のみで演じたのを僕に思ひ出させようとする。その時僕の眼に浮んだのは、しかしヤニングスの肩ではなく、それに何處か似てゐる槇の肩である。僕はふと、六月の或日、槇と一しよに町を散歩してゐたときの事を思ひ出す。僕は彼が新聞を買つてゐるのを待ちながら、一人の女が僕等の前を通り過ぎるのを見てゐた。その女は僕を見ずに、槇の大きな肩をぢつと見上げながら、通り過ぎて行つた。……その思ひ出の中でいつかその見知らない女と彼女とが入れ代つてしまふ。僕はその思ひ出の中で彼女が槇の肩をぢつと見つめてゐるのを見る。そして僕は、彼女がいま無意識のうちにヤニングスの肩と槇の肩をごつちやにしてゐるのだと信じる。しかし僕は不公平でない。僕は槇の肩を實にすばらしく感じる。そしてそのどつしりした肩を自分の肩に押しつけられるのを、彼女が欲するやうに、僕も欲せずにはゐられなくなる。
 僕はもはや僕が彼女の眼を通してしか世界を見ようとしないのに氣づく。我々の心がネクタイのやうに固く結び合はされるとき我々に現はれて來る一つの徴候。それは氣を失はせるやうな苦痛をいつも伴つてゐる。
 僕は、もう僕の中にもつれ合つてゐる二つの心は、どちらが僕のであるか、どちらが彼女のであるか、見分けることが出來ない。

          6

 僕等が別れようとした時、彼女は
「いま何時?」と僕に訊いた。僕は腕時計をしてゐる手を出した。彼女は眼を細めながらそれをのぞきこんだ。僕はその表情を美しいと思つた。
 僕は、一人になつてから暫くすると、急にその腕時計を思ひ浮べた。僕は歩きながら、僕の父から貰つた金がもうすつかり無くなつてしまつてゐることを考へてゐた。僕は自分で何とかして小遣を少しこしらへなければならなかつた。僕は先づ、かういふ場合に何度も賣拂つた僕の多くの本のことを思ひ浮べた。しかし本はもう殆ど僕のところには殘つてゐなかつた。僕が突然僕の腕時計を思ひ浮べたのは、この時であつた。
 しかし僕はかういふものを金に替へるにはどうしたらいいか知らなかつた。僕はさういふ事に慣れてゐる友人の一人を思ひ出した。僕はそれを彼に頼むために思ひ切つて彼のアパアトメントに行く事にした。
 僕は、顏を石鹸の泡だらけにして髭を剃つてゐるその友人を、彼の狹苦しい
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