を見て、それを彼女の力で破らうと努力し出す。しかしそのためには、僕が默り込んでしまつてから妙に目立つて來た彼女の輕い咳を、不器用に利用する事しか出來ない。
「こんなに咳ばかりしてゐて。私、胸が惡いのかしら」
 僕は彼女を急に感傷的《センチメンタル》に思ひ出す。僕には彼女の心臟が硬いのか、脆いのか、分らなくなる。僕はただ、ひどい苦痛の中で、彼女の結核菌が少しづつ僕の肺を犯して行く空想を、一種の變な快感をもつて、しはじめる。
 彼女は彼女の努力を續けてゐる。
「昨夜《ゆうべ》、店をしまつてから、私、犬を連れて、この邊まで散歩に來たのよ。二時頃だつたわ。ずゐぶん眞暗だつたわ。さうしたら誰だか私の後をつけてくるの。でもね、私の犬を見たら、何處かへ行つてしまつたわ。それはとても大きな犬なんですもの」
 僕はすつかり彼女のするままになつてゐる。彼女はどうにかかうにか僕の傷口に藥をつけ直し、それをすつかり繃帶で結はへてしまふ。そして僕は、彼女と共にゐる快さが、彼女と共にゐる苦痛と、次第に平衡し出すのを感じる。
 一時間後、僕等はベンチから立上る。僕は彼女の着物の腰のまはりがひどく皺になつてゐるのを見つける。そのベンチのために出來た皺は僕の幸福を決定的にする。
 僕等は別れる時、明日の午後、活動寫眞を見に行く事を約束する。

 翌日、僕は自動車の中から、公園の中を歩いてゐる彼女を認める。僕の小さな叫びは自動車を急激に止めさせる。僕は前に倒れさうになりながら、彼女に合圖をする。それから自動車は彼女を乘せて、半※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]轉をしながら走り出し、一分後には、午後なので殆ど客の入つてゐない、そしてウエイトレスの姿だけのちらと見えるシヤノアルの前を通り過ぎる。この小さな冒險は臆病な僕等に氣に入る。
 シネマ・パレス。エミル・ヤニングスの「ヴアリエテ」。僕はその中に入りながら、人工的な暗闇の中に彼女を一度見失ふ。それから僕は僕のすぐ傍に彼女らしいものを見出す。しかし僕はそれが彼女であることをはつきり確めることが出來ない。そのために、彼女の手を探し求めながら僕の手はためらふ。そして、僕の眼はといへば實物より十倍ほどに擴大された人間の手足が取りとめもなくスクリインの上に動いてゐるのを認めるばかりだ。
 彼女は地下室のソオダ・フアウンテンでソオダ水を飮みながら、僕にエミ
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