ヤノアルを出ると、それから明日の朝までの間をどうしてゐたらいいのか全く分らなかつた。僕にはその間が非常に空虚なやうに思はれた。僕は少しも睡眠を欲しがらずにベツドに入つた。ふと槇の顏が浮んできた。が、すぐ彼女の顏がその上に浮んで、狡さうに笑ひながら、それを隱してしまつた。それから僕はほんの少しの間眠つた。――そして僕がベツドから起き上つたのは、まだ早朝だつた。僕は家中を歩きまはり、誰にでもかまはず大聲で話しかけ、そして殆ど朝飯に手をつけようとしなかつた。僕の母は氣狂のやうに僕を扱つた。
5
漸く彼女が來る。
僕はステツキを落しながらベンチから立上る。僕の心臟は強く鼓動する。僕には彼女の顏が正確に見えない。
僕は再び彼女と共にベンチに腰を下す。僕は彼女の傍にゐることにいくらか慣れる。僕は彼女の顏をはじめて太陽の光によつて見るのであることに氣づく。それは電氣の光でいつも見てばかりゐた顏と少し異ふやうに見える。太陽は彼女の頬に新鮮な生《なま》な肉を與へてゐる。
僕はそれを感動して見つめる。彼女は僕にそんなに見つめられるのを恐れてゐるやうに見える。しかし彼女は注意深くしてゐる。彼女は殆ど身動きをしない。そしてときどき輕い咳をする。僕はたえず何か喋舌つてゐる。僕は沈默を欲しながら、それを恐れてゐる。僕の欲してゐるのは、彼女の手を握りながら、彼女の身體に僕の身體をくつつけてゐることのみが僕等に許すであらう沈默だからだ。
僕は僕自身のことを話す。それから友達のことを話す。そしてときどき彼女のことを尋ねる。しかし僕は彼女の返事を待つてゐない。僕はそれを恐れるかのやうに、又、僕自身のことを話しはじめる。そして僕の話はふと友達のことに觸れる。突然、彼女が僕をさへぎる。
「槇さんたちは私のことを怒つていらつしやるの?」
彼女の言葉がいきなり僕から僕の局部を麻痺させてゐた藥を取り去る。
僕は前に經驗したことのある痛みが僕の中に再び起るのを感じる。僕はやつと、あれから槇には自分も會はないと答へる。そして僕は呼吸《いき》の止まるやうな氣がする。僕はもう一言も物が云へない。その僕の烈しい變化にもかかはらず、彼女は前と同じやうに默つてゐる。さういふ彼女が僕にはひどく冷淡なやうに思はれる。そのうちに彼女は、だんだん不自然になつてくる沈默を僕がどうしようともしないの
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