ほどぼんやりしてゐる自分自身を見出すことは、僕の悲しみに氣に入るのである。
 時々、歩道に面した小さな酒場が僕を引つぱりこむ。煙りでうす暗くなつてゐるその中で、僕は僕のテイブルを煙草の灰や酒の汚點《しみ》できたなくする。そしてしまひにはその汚れたテイブルが、僕に、その晩中僕の影のよごしてゐた長い長い歩道を思ひ出させる。僕は非常な疲れを感じる。僕はそこを出ると、すぐタクシイに飛びこみ、それからベツドに飛びこむ。そして僕は石のやうに眠りの中に落ちて行くのである。

 或夜、僕は群集の中を歩きながら、向うから來る一人の青年をぼんやりと見つめてゐた。するとその青年は僕の前に立止つた。それは僕の友達の一人だつた。僕は突然笑ひ出しながら彼の手を握つた。
「なんだ、君か」
「おれを忘れたのかい」
「ああ、すつかり忘れちやつた」
 僕はわざと快活さうに言つた。しかし僕は、彼を見てゐながら、彼と氣づかなかつたことが、それほど僕のぼんやりしてゐることが、彼を悲しませてゐるらしいのを見逃さなかつた。
「どうして俺たちのところに來なかつたのだ」
「僕は誰にも會はなかつたのだ。誰にも會ひたくなかつたのだ」
「ふん……ぢや、槇のことも知らないな」
「知らないよ」
 すると彼は一言も云はずに默つて歩き出した。僕は彼がこれから槇について話さうとしてゐることが、再び僕の心を引つくり返すにちがひないのを豫感した。しかし、僕は犬のやうに彼に從いて行つた。

「あの女は天使だつたのさ」
 彼はその天使と云ふ言葉を輕蔑するやうに發音した。
「槇はあの女を連れてよく野球やシネマに出かけて行つたのだ。最初、あの女は槇の言葉で云ふと、とても蠱惑的《シヤルマン》だつたのださうだ。ところが、槇が一度婉曲に、女に一しよに寢る事を申込んだのだ。すると女が急に彼に對する態度を一變してしまつた。そしてそれからの女の冷淡さと言つたら、槇を死ぬやうに苦しませたほどだつた。一體あの女は、男の心を少しも知らないのか、それとも男を苦しませることが好きなのか、どつちだかわからない。あいつは生意氣なのか、馬鹿なのか、どつちかだ。――おい、ウイスキイ! 君は?」
「僕はいらないよ」僕は頭をふつた。僕はそれを他人の頭のやうに感じた。
「それから」僕の友人は續けた。「槇は突然何處かに行つてしまつたのだ。どうしたのかと思つてゐたら、昨日、ひよつく
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